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東京の午睡#13 放蕩息子の帰還/志ん生に入門かなわず明烏 あざなう縄は芝浜の 母は千代女の傾城屋

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 生物学上の父親は早稲田の学生の時分、なめくじ長屋に五代目古今亭志ん生を訪ね、入門を乞うた。半日ねばったが入門はかなわなかった。これは生物学上の父親とわたくし、二人の男の人生の一番目の綾である。もし、生物学上の父親が古今亭志ん生に弟子入りを許されていれば、まちがいなくわたくしがこの世に生をうけることはなかった。
 徴兵後、梅機関の特務機関員として大陸で悪逆非道のかぎりをつくし、ニューギニアのジョスンダで終戦。C級戦争犯罪人として現地処刑のはずが、運良くなのかどうかとにかくも生きのびて命からがら祖国に帰還した。生きて虜囚の辱めを受けた経験が生物学上の父親の精神構造に暗い影を落としたことは言葉の端々から窺えた。その後、政治家を志すも私淑していた河野一郎の急死や自身の落選の憂き目を経て放蕩三昧の果てに故郷へ帰還した生物学上の父親は、数年後、再起を果たすべく東京に舞い戻る。サクセス・ストーリーの道を歩みかけるが生来の道楽者気質は変わろうはずもなく、けっきょく、莫大な借財を抱え、失意のうちに再び故郷の室蘭へ帰った。酔うと涙をぽろぽろこぼしながら『北帰行』を歌っていた生物学上の父親の心の震えがいまはわかる。
 遠い日、若き古今亭志ん朝の『明烏』の噺を生物学上の父親と二人、上野の鈴本演芸場で聴いた。高座がハネたあと、浅草の神谷バーまでタクシーを飛ばし、電気ブランを競って煽った。そのときも生物学上の父親は涙をぽろぽろこぼしながら『北帰行』を歌った。浪花節のように聴こえた父の『北帰行』。甘く馨しいはずの電気ブランがそのときはなぜかほろ苦かった。それであってもなお、神谷バーにはスローでやさしい時間が流れていた。
 清濁併せ呑みつくし、禍福あざなえる縄のごとき人生を生きた男は「本当のこと」をなにひとつ語らぬまま鬼籍に名を連ねた。そして、その遺伝子を受け継いだわたくしは山っけと道楽者気質と酒好き女好き喧嘩好きにさらにターボがかかった人生を生きた。生きてきたことであった。これからも本質は変わるまいと思っていたが、このところ、心境に大きな変化が起こりつつある。初めて味わう気分である。しかも、悪くないどころか、すこぶるいい気分である。これまでまったく興味のなかった「しあわせ」やら「おだやかさ」やら「やすらぎ」やら「かなしみ」やらが宝石のごとくに輝いて見える。この変化についてはいずれ明らかにしたいが、きょうのところはやめておく。傾城屋に帰還する刻限である。端倪すべからざる平成沈黙狸合戦パオパオ(少年タナカ・ヴァージョン)の対戦者である山城の国の権兵衛狸と、禁酒番のお役目後に養子縁組する予定の水カステラ・マイスターのお二方が落語にまつわることを書いていたのがきっかけでとんだカミング・アウトになってしまった。ついでと言ってはなんだが、こんなところで愛宕山。

 高座で眠りこける志ん生に文句を言った野暮天に常連の粋筋がひと言。
「志ん生の噺はいつでも聴けらあ! 高座で寝てる志ん生はそうそうお目にかかれるもんじゃねえや! すっこんでろい! このスットコドッコイ!」

 このような大見得を息子の志ん朝の高座で切ってみたいとずっと思っていたが、かなわぬうちに志ん朝は死んでしまった。アイルトン・セナの死とともにF1を見ることもサーキットに足を運ぶこともなくなったように、志ん朝の死以後、高座には行かなくなった。テレビ寄席も見ない。行っても見ても、心躍らないことがわかっているから。あとは大須演芸場で聴いた志ん朝一世一代の『芝浜』をよすがとして、消えゆく古典芸能を野辺送りしたいと思う秋、二日。(老松) 

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