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思い出の『Moonlight Serenade』と1958年式アトランティック・バード号の夜間飛行後の引退

 
 
Vol de Nuit20140710
 
 
恋におちたのは2008年の夏の終わりだった。相手は私のゼミナールに所属していた教え子だ。6年ぶりの再会だった。学生時代はジーンズにTシャツというラフでざっかけないありふれた女子学生にすぎなかった彼女は、見ちがえるほど美しく、可憐で清楚で気品にあふれ、しかも華のある成熟したおとなの女性に変貌していた。いくぶんかの哀しみと愁いを含んだ表情も彼女の魅力をさらに引き立てているように感じられた。

私と彼女を引き寄せたものがなんだったのかはわからない。ただ、これだけは言える。私たちは魔法でもかけられたようにたちまちのうちに恋におち、笑い、泣き、たまに言い争い、そのたびに仲直りし、そして、砂時計が時を刻むように鋭く深く確実にいくつかの季節をともに生きたのだと。

あるパーティーの帰り道。グレン・ミラー楽団の演奏する『Moonlight Serenade』が流れるクルマの中で、親子ほども年齢の離れた若い恋の相手は私の肩に頭をもたせかけたまま何度も溜息をついた。重ねた手の白い指先が小刻みにふるえているのがわかった。心の軋む音さえ聴こえた。そして言った。

「思い出せない。この曲の名前がどうしても思い出せないの。だれもが知っているはずのスタンダード・ナンバーなのに」
「『Moonlight Serenade』。グレン・ミラー楽団だよ」
「今夜くらい月のきれいな夜、『Moonlight Serenade』を聴きながら夜間飛行できたら素敵ね」
「いつかやるさ。きみが本物のおとなのレディになったときにね」
「ずいぶんと先の話だわ。あなたはおじいちゃんになっちゃうし」

彼女は首をすくめ、脚をバタバタさせ、おどけた仕草をみせた。私は曲をリピート・セットした。夜の帳の降りた街を見おろす公園の駐車場にクルマを停め、私たちは繰りかえし『Moonlight Serenade』を聴き、みつめあい、手をにぎりあい、ときどき口づけを交わし、夜の静寂に包まれた街と14番目の月を交互に眺めた。

「どうしよう。こんなに恋しちゃって」
「だいじょうぶ。いつかさめるから。そして終わる」
「いじわる」
「先のない恋という覚悟をしておくのはおとなの男のたしなみさ。それに、飛行に乱気流はつきものだ。それどころか墜落だってありうる。操縦のむずかしいきみのような相手では特にね」
「でもいまだけは ── 」
「そう。いまだけはありったけ恋すればいい」
「そうね」
「初めて会ったときにわれわれの恋の終わらせ方について決めたのはおぼえてるね? 泣かない。怒らない。異議申し立てしない。そして、たがいに二度と電話もメールもしない。すべてなかったことにする。きみはそれに同意した。この恋から答えはなにひとつみつからないってことも含めてね。かけらさえも」
「ええ。覚悟はできています。それにしても、やっぱりあなたって本当にいじわるだわ」
「いまにはじまったことじゃない」


Moonlight20140710.jpg


彼女の言うとおり、私はいくぶんかいじわるだったかもしれない。彼女の大きな瞳に大粒の涙が光る。私は涙をぬぐうかわりに彼女の右瞼に唇を寄せた。彼女が愛しくてならなかった。このままだれも知らぬ土地へ連れ去ってしまいたいくらいに。

「おねがい。いつかわたしをダンスに誘って。この曲で。それと夜間飛行にも」
「いつかじゃない。いまだ」

私たちはクルマを降り、月あかりを浴びながら『Moonlight Serenade』にあわせて踊った。まるで夜間飛行をしているような気分だった。公園の片隅の自動販売機が喝采するように目映く輝いていた。

軽やかなステップ、可憐なターン、清楚なスウェイの仕草、そして、気品にあふれたスクエア。私の無骨なリードにもかかわらず、彼女のダンスは完璧だった。私たちの恋のゆくえ、恋のライン・オブ・ダンスは不安定きわまりもなかったが。恋の夜間飛行はいつ乱気流に巻き込まれ、墜落してもおかしくなかったのだが。

「時間が止まってくれたらいいのに。これが夢ならさめなければいいのに」

『Moonlight Serenade』の演奏が終わりにさしかかろうとしたとき、彼女は私の胸に顔をうずめ、涙声でつぶやいた。私は彼女の顔を人差し指で上に向かせ、そっと口づけをし、つよく抱きしめ、言った。

「お嬢さん、それは無理な願いごとというもんだ。今夜の満天のお星様たちだって聞き届けてくれやしない。わかるね?」
「わかりました。先生」


Boaing20140710.jpg


その後、私たちの恋物語は予想外の展開をみせて終演したが、『Moonlight Serenade』を聴くたびに彼女のことを思い出す。彼女の着ていたシルク・デシン地の黒いパーティー・ドレスの衣ずれの音はいまも耳に残る。彼女がまとうフレグランス、『夜間飛行』の森の中をさまよっているような密やかで凛と背筋の伸びた香りも。そして、かすかに心の軋む音。機体のあちこちに厄介な問題を抱えた1958年式アトランティック・バード号にいよいよ引退の潮時がきたのだ。「老兵は死なず。ただ静かに消え去るのみ」と操縦席にも記してある。


今夜、銀河系宇宙の片隅で。




     
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