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「抱擁。」とつぶやいたあと、サモトラケのニケは屋根裏部屋の王の耳元で異界の刻の到来を告げる。

 

Marie Antoinette:BREGUETNO160
 

シシリアーノ第3主題【ルチアーノとカンノーリの半音階的転調および大フーガ〈そして衣裾をたくし上げ、城壁のカテリーナ・スフォルツァは叫ぶ〉】をリパッティ風に奏でながらサモトラケのニケは「抱擁。」とつぶやいた。


ふるえる翼。輝く眼差し。解法の微笑。そして、異界への誘い。異界の刻までいくばくもない。サモトラケのニケは告げる。

「Festina Lente !」

屋根裏部屋の王は[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]の4番車を調整する手をとめ、断頭台に引き立てられる王妃の力ない笑みを思い浮かべた。晴れたパリの青い空に、刎ねられた王妃の血潮にまみれた首が舞う。5年も前のことだ。屋根裏部屋の王は作業に戻る。

「だめだ。雁木車がまだ完全ではない。だめだ。だめだ。これでは王妃様にお渡しできない。わたしは王妃様に”最終解答”をお見せしなければならない」

1番車を回転させる。短針の動きに問題はない。回転比を上げた2番車が長針を回転させる。これも問題なし。掌の中の宇宙は緩慢と敏捷の集積によって時を刻む。時は刻々と過ぎゆくかと思われた。いやちがう。時はない。「時は私がつくるのだ」と屋根裏部屋の王は思う。

「すべて過ぎゆく。変わる。変節する。裏切る。変わらず、裏切らないのは時間だけだ」

ロンドンのハノーヴァー・スクエア・ルームズで聴いたハイドンの『交響曲第101番ニ長調』第2楽章がよぎり、屋根裏部屋の王を急かす。アンティキティラ島のアルキメデス・マシーンの呼び声が感音難聴の煩瑣をしばし消す。

「Festina Lente ! 急ごう。解答はいまだ出ていない。契約はまだ終わってはいない」

屋根裏部屋の王はみずから頸いた群青色のコードバンのカラーをさらに引き締める。




     
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