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フェデリコ・ボレル・ガルシアの夢

 
 
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戦争は政治以外の手段によって行われる政治の延長である。C.V.C.

今般、2013年の春の初めに開戦したある「戦争」が終戦を迎えた。この戦いのあいだに斃れた多くの無名戦士たちに手向ける花を私は持たない。追悼の言葉さえない。ただ彼らの安らかなる眠りを祈るばかりである。

この戦いに勝者はいない。同様に敗者もいない。あるのは語りつくせぬことについて語ろうとしたことへの悔恨のみである。語りつくした果てにはなにものもないことを承知したうえであったとしてもだ。我々は和睦のためにではなく、ましてや戦いの果ての慈しみあいのためになどではなく、ただ戦うために戦ったのだ。

一枚のモノクロ写真に目を凝らす。長いあいだ繰り返し繰り返し凝視しつづけてきた写真。戦場カメラマンのロバート・キャパの手になる「斃れる兵士」だ。「D-Day」と並んでロバート・キャパの名を世界に知らしめた一枚である。斃れる兵士の「声」を聴きとろうと耳をそばだてつづけてきたが、いまだ彼の声を聴き取れずにいる。もどかしい。

斃れる兵士の土手っ腹ど真ん中を、視えない自由を撃ち抜くための視えない銃で撃ち抜きたい衝動が身を貫くけれども、どう足掻いても引金を引き絞るための魂の力が指先に宿らない。意志の中心にあるはずのメタルが錆つきでもしたか。情けないことだ。

1936年9月5日、スペイン内戦の最中。コルドバ戦線セロ・ムリアーノ近郊の戦いでロバート・キャパは一人の人民軍兵士にカメラを向けた。キャパがシャッターを切った瞬間、兵士は頭部に被弾し、崩れ落ちた。彼の名はフェデリコ・ボレル・ガルシア。24歳の若者である。

「斃れる兵士」はいつしか一人歩きをはじめ、戦争の悲惨さを語るときのステレオタイプのひとつとなった。しかし、「斃れる兵士」の本質はこの戦闘の際の他の写真と「組」にしてこそ見えてくる。辛く苦しい作業だが必要な作業だ。

一連の組写真の中で、西陽を浴びて敵弾に斃れた兵士は果敢に敵を攻撃している。彼の行為はまぎれもれもなく敵側の「斃れる兵士」を生む。

襲いかかる敵弾の雨の中、勇猛果敢に戦い、銃弾を放つ兵士と斃れる兵士。2枚の写真の対比は悲劇の主人公の行為の告発ではなく、「兵士」の本質の再確認である。

人は言う。曰く、彼はファシストから国を守ろうとした愛国者であると。曰く、侵略には断固として戦うべきだと。しかし、真に告発されるべきは権力者と時代に迎合し、翻弄された人々である。その意味において、「斃れる兵士」の狙う銃口の先にいるのもまた一人の兵士にすぎないことに気づく。

自由を守ったと喧伝される連合軍兵士の銃弾に斃れたガダルカナルやインパールの日本軍兵士も、ノルマンディーの戦いで死んでいったドイツ軍兵士も「斃れる兵士」と同じである。「斃れる兵士」が伝える真のメッセージとは彼一人の「英雄の悲劇」ではなく、彼のように何千万もの人々が兵士として殺し合い、そして斃れたことに思いいたれということにつきる。

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祖国に捧げた彼の命は尊い。彼のように戦い、彼の斃れるように斃れていった兵士が、誰にかえりみられることもなく無数にいることの重さに思いを馳せなければならない。兵士として戦い、兵士として斃れる大きな悲しみに気づかなければならない。そのとき「斃れる兵士」は何千万倍もの命の重さを持つ。

「戦争」という冷徹冷厳なテーゼに対し、人間はあらゆるアプローチで理解しようとし、様々なモチーフとして展開してきた。それはときに文学のかたちをとり、社会科学のかたちをとり、美術や音楽のかたちをとった。向かい合う者に深い沈黙をもたらしつづけるものもあれば、陳腐なステレオタイプに堕し、形骸化しているものもある。

命のかけらさえ差し出さずに口先小手先で「平和」のお題目を百万遍唱えたところでコストも時間も人手もかかりはしない。兵士の手元にフィールド・レーションDは届かない。

実現の道筋なき空虚な平和の絵空事をしたり顔鼻高々に語る者たち。家では家族の笑顔とあたたかい食事とやわらかなベッドが彼らを待っている。

20世紀の二度にわたる世界大戦や数々の紛争を経て、「戦争」そのものの様相が複雑化し、戦争の語られ方や認識は多様化した。そして、「戦争」という一種犯しがたいニュアンスを論理の後ろ盾としたあらゆるオピニオンが出現した。戦争はいまや「語られるべき主体」から、あらゆる主張に対して潤沢に論拠を提供する「都合のいい素材」へと変貌していった。

その一方で、そういった流れの中で次第に語られなくなった側面がある。それはほかならぬ「戦場」そのものだ。「戦場」においては、人は兵士としてあらゆる手段で殺戮する。「戦場」にあるのはリアルきわまりもない生と死である。

生き残るために殺し、生き残ろうとしても死ぬ。声高に反戦、あるいは戦争礼賛を唱えるのではなく、よりストレートなかたちで戦いの最も先鋭的な部分、すなわち人々が最も直接的にこだわった部分を伝えること。理論家、活動家、学者のもてあそぶ冷徹な素材ではなく、生身の兵士が命を賭け、苦悩と矛盾と信念とを胸に秘めて戦った戦場の点景を「視えない銃」で撃ち抜くこと。

百万の兵士が斃れても「西部戦線異常なし」と打電する世界の狂気と向かい合うこと。一人を救い、世界を救っても、なおすくいきれぬものがあることに思いをいたすこと。真の戦場は個々の胸の内にこそある。

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いま、私が従軍する「言葉の戦場」には寒々しい風が飄々と吹くばかりだが、私はまた別の「言葉の戦場」へと出兵しなければならない。いくぶんかのかなしみがなくもないが、いずれ足取りは冷徹なクラウゼヴィッツ・ダンスへとかわるだろう。

過ぎた戦いの痛みは時の経過とともに忘却の彼方へと流れ去り、日常の一部となる。フェデリコ・ボレル・ガルシアの夢は一瞬、一度かぎりだ。

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