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YUMINOLOGY#1 春の大連に手紙の返事は届いたのか?

 
 
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 松任谷由実の『水の中のASIAへ』(1981)の中に『大連慕情』という歌がある。派手さはないし、ポップなところは皆無だし、よほどの「ユーミン好き」「ユーミン・フリーク」でなければ知らないような地味な楽曲だが、とてもいい。
 若き日の父親が母親に宛てた古い手紙を見つけるというなんとも泣かせるシーンから『大連慕情』の物語は始まる。アカシアの香りがかすかに漂う古い手紙。黄ばんだ便箋。そそぐ陽射し ── 。

 返事は着いたのですか? 遠い日の異国へ

 ここですでに吾輩などはノックアウトだ。松任谷由実は実にうまいと感心する。松任谷由実のすごさというのは心、魂の琴線にふれるような「かなしみ」「せつなさ」「はかなさ」をすくいとるところにこそある。それは男と女の恋愛にまつわることであろうが親子の情愛にかかわることであろうが変わらない。
 戦前か戦時中か。いずれにしてもきな臭くなりつつあった中国大陸に赴任中の夫とそれを日本で待つ妻。娘は自分が生まれるずっと昔の若き日の父と母を思う。
 父はすでに死んでいる。母も死んでいるかもしれない。母親が亡くなり、形見分けのさなかに「手紙」をみつけたのかもしれない。黄ばんだ古い手紙からしか二人の「青春の日々」をたどることはできない。もはや父と母の本当の「想い」を知ることはできない。二人の「ときめき」を知るすべはない。「死」はすべてを深く遠い闇の奥に隠してしまうからだ。時間は残酷だ。時間にはつねに死の匂いがする。知りたい。父がなにを思い、母がなにを感じていたのか。 

 吾輩には『大連慕情』にまつわる思い出がひとつだけある。大学を卒業し、新しい生活の根拠地へ引っ越すための準備をしている春の盛りのことだ。一段落し、吾輩は手に入れたばかりの『水の中のASIAへ』のレコード盤を棚から取り出し、B面の1曲目『大連慕情』をかけた。自然と涙があふれてきた。
 母親が死んですでに10年近くが経っていた。母親の匂いや声や笑顔が次々と浮かんでは消えていった。かなしくも面影は日々うすれゆく。たとえかけがえのない者の面影であってもだ。そう思い知ったとき、吾輩は吾輩のほかにはだれもいない部屋で声をあげて泣いた。
 吾輩は『大連慕情』を繰り返し聴いた。何度目の『大連慕情』だったか。うしろから押し殺したような泣き声が聞こえてきた。泣き声というよりもそれはうめき声だった。
 驚いてふりかえる。生物学上の父親だった。生物学上の父親に会うのは2年前の大晦日の夜以来だった。2年のあいだにずいぶんと齢をとっていた。顔のしわが驚くほど多く、深い。からだはふたまわりほど小さく細くなっている。
「引っ越し祝いにと思ってさ」
 生物学上の父親はそう言ってジョニ黒のビンを差しだした。
「うん」
「じゃ」
「待ってよ」
「え?」
「飲もう」
「いいのか?」
「もちろんだよ」
「すまん」
「あやまるのはおれのほうだ」
「・・・」
「つまりさ、おれはあんたがずっとおれに背を向けていたと思っていたけど、おれもあんたもおなじ方向を見ていたんだってことがやっとわかったんだ。あの大晦日の夜」
「ありがとう」
「礼を言わなきゃならないのはおれのほうだ。聴かせてほしいんだ。昔の話を。戦争中のことや中国でのことやおふくろと出会った頃のことを」
「とりあえず、なにから話せばいい?」
「とりあえず、乾杯しよう。それから世間話をしよう。” 本当の話 ”はそのあとだ」
「それがいい」

 吾輩と生物学上の父親はそれから夜ふけまでジョニ黒を湯呑み茶碗で酌み交わし、いろいろなことを話した。戦争中のことや中国でのことはここでは憚られるし、母親とのなれそめやその後の道行きについては彼らと吾輩の秘密だ。
 ただひとつだけ。吾輩のおふくろ様が生物学上の父親に宛てた最初にして最後の手紙のことだ。生物学上の父親はその手紙を肌身離さずに持っていた。見せてもらったがあちこちに涙と思われるしみがあった。
 手紙は困憊の生物学上の父親を励まし、「世界中があなたの敵にまわっても、わたくしはあなたの味方です。なにがあってもわたくしはあなたを支えます。そして、あなたの人生を見届けさせていただきます。それがわたくしの幸せです」としめくくられていた。生物学上の父親が長い人生のあいだに何度も読み返し、そのたびに涙したのも無理はない。
 手紙は吾輩が受け継いだ。生物学上の父親が死んだときは棺にその手紙の一部と母親の好きだった山百合の花を入れてやった。山百合の甘くせつないかおりに包まれ、「生涯にただ一人だけ愛した女」の手紙をふところに生物学上の父親は三途の川を渡ったというわけだ。閻魔様もすこしは匙加減を甘くしてくれたにちがいない。『大連慕情』の母親の手紙もきっと遠い日の大連に届いたはずだ。それにしても時間は残酷だ。あらゆることを遠い闇の奥に隠す。


 大連慕情 - 松任谷由実




     
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