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黄金の羊#2 世紀末ホテルの夜

 

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 一眼は夜の暗闇を、一眼は空の青を抱く。


 黄昏れゆく麻布十番の雑踏を抜け、暗闇坂をのぼる。暗闇坂右側にある聖フォルトゥナ・トリオンフィ修道院を囲む鈍色の壁に沿って暗闇坂を登りながらラフマニノフの『ヴォカリーズ』を口ずさんでいると、熱を失った涙が次から次へと溢れてくる。涙のわけを探る必要はない。大抵の場合、涙はただ流れるままにしておくのがよい。いつか涸れ、乾くからだ。
 暗闇坂の中腹辺りで暗鬱な気配の類いに呼ばれ、左手のエスタライヒ大使館を一瞥する。掲揚塔の国旗が半旗の状態で風に翻っている。誰が死んだのか? わずかに興味をそそられるが、昼に食した鰻の脂の匂いが鼻先によみがえり、気持ちはみるみる萎えてしまった。モーツァルトのレクイエム第八曲、『涙の日』の旋律にのせて、「Austria Est Imperare Orbi Universo」とだけ唱えた。死者は決して蘇らぬが、なにがしかの慰めを捧げることは生き残った者の責務である。聖フォルトゥナ・トリオンフィ修道院の壁の内側から修道僧たちの厳かな祈りの声が聴こえる。長い夜になりそうだった。

 キリスト教異端史を伝えるディオクレティアヌス紀元2世紀の書、『エフェソス・スミルナ・ペルガモン・ティアティラ・サルディス・フィラデルフィア・ラオディキア・グーゴル・ウィキペディアヌッコ』によれば、千年王国論の特殊性とキリスト再臨の解釈をめぐる議論が「異端」のそもそもの端緒であったとされる。至福の千年ののち、サタンとの最終戦争を経て最後の審判が待っていることについては『サン・セルナンの祈祷書』に詳しいが、いわゆる清教徒革命、第三帝国論のいずれもが「異端」から出発したことは注意しなければならない。さらに言うならば、ナチス・ドイツの思想的基盤にあったものが強固なオカルティズムであることもまた、我々は忘れてはならない。ホロコースト、Uボート、報復兵器第2号(V-2 ROCKET)はナチスが企図したオカルト戦争の延長線上にあったのである。神秘主義の現代的結実はインターネットの基礎的理念は無論のこと、一片のバーコードのうちにも現れている。


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 薔薇十字団本部から『ヴォイニッチ手稿』の解読を依頼したい旨のメールが届いたのは旅装を整えるために聖フォルトゥナ・トリオンフィ修道院から一時帰った翌日の夜明けのことであった。窓外に眼をやれば、富士南嶺から降りてきた霧の一群がいつものように強い憎悪を矢のように放ってくる。
 暗闇坂を登りきると小高い丘に出る。丘一面に群生するラベンダーの紫色の火影が揺れ、風のかたちを教える。丘のとば口に立ち、「そのとき」がくるのを息を潜めて待つ。眼下の古刹から吹き上がってくる生暖かい風に身を任せていると、すべてのことどもは幻影にすぎないことが実感される。広尾の方角に消えうせた太陽の名残りが丘から失われ、夜の帳が降りると同時にコロニアル風の洋館が低い鳴動を発しながらその威容を現す。かくして、世紀末ホテルの夜が始まる。


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「合言葉をお願いいたします」
 紫色の服に身をつつんだベルボーイがラベンダーの香りを吐き出す。
「Fin de Siecle」
「ようこそ、世紀末ホテルへ」
 夜の帳が引き上げられ、エゴン・シーレの彫刻が施された輝く日輪のごとき世紀末ホテルの扉が開かれる。太り肉のコンシエルジュのなつかしい笑顔が迎える。そのコンシエルジュはエゴン・シーレの『シュバルツェン・ゲバント氏の肖像』から抜け出してきた者だ。シュバルツェン・ゲバント氏本人であるという者さえいる。シュバルツェン・ゲバント氏との決定的なちがいは右の瞳が榛色で左の瞳が群青色である点だ。
 コンシエルジュの名はアナスタシウス・ヘテロクロミア=イリディス。家系的に虹彩異色症であることは、その名前から窺い知ることができる。彼のオッドアイにみつめられると、いつも身体が中心から真っ二つに引き裂かれるような感覚に襲われる。
「森鳴さま。お待ち申し上げておりました。村上春樹さまからのおことづてをおあずかりしております」
 二色の光を静かに放ちながらコンシエルジュは恭しくからだを折った。アナスタシウス・ヘテロクロミア=イリディスは一旦言葉を飲み込んでから言った。神託のような荘厳を孕む言葉だった。
「一眼は夜の暗闇を、一眼は空の青を抱く」
 私はすぐに応答した。
「倍音。」
「ようこそ、世紀末ホテルへ」
 アナスタシウス・ヘテロクロミア=イリディスは作り物のような微笑を浮かべてから、鮮やかなヒマラヤン・ブルーのサファイアに縁取られた鍵を差しだした。かくして、世紀末ホテルの夜は始まった。




     
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