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在りし日の写真の前に挿した桜の花影に置かれた涼しく光るレモンは汚染された。

 

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「ほんとの空」がなくなるのは東京だけではない。在りし日の写真の前に挿した桜の花影に置かれた涼しく光るレモンは芯の芯まで未来永劫に汚染された。E-M-M


 1938年、高村光太郎の献身的な看病ののち、妻の智恵子は52歳で亡くなった。智恵子の死後、光太郎が変わらぬ愛を綴り、世に出したのが『智恵子抄』である。『智恵子抄』は死んだ智恵子へのレクイエムであったのは勿論だが、それは高村光太郎自身への鎮魂歌でもあったろう。


 あどけない話 高村光太郎『智恵子抄』より

 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ
 私は驚いて空を見る
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ
 どんよりとけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ
 智恵子は遠くを見ながら言ふ
 阿多多羅山の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ
 あどけない空の話である



「あどけない話」は昭和3年5月作。『智恵子抄』は高村光太郎が長沼智恵子を40年にわたって詠んだ詩集だ。高村光太郎の長沼智恵子への慈愛と戸惑いと、智恵子をとおして高村光太郎がえた感動と発見が散りばめられた美しい言葉が詰まっている。高村光太郎が実父の高村光雲という巨大な影の軛を乗り越えることができたのは智恵子との生活、日々があったからこそだろう。
 酒造業を営んでいた実家の破綻を契機遠因として智恵子は心を深く病む。智恵子の心、精神が日々、確実に崩壊していく中にあっても光太郎は智恵子を決して見放さない。それどころか、献身的に彼女を支えつづける。「あどけない話」は、智恵子の実家の家業が破綻する前年に記されたものである。
 智恵子は明治19年、福島県二本松町生まれ。智恵子の家業である造り酒屋は繁盛し、裕福だった。智恵子の言う「ほんとの空」とは安達太良山の上の青空だ。
 東京での生活は智恵子には合わなかった。のちに光太郎は『智恵子の半生』の中で、「彼女にとって肉体的に東京は不適当の地であった」と述懐している。智恵子の目に映る東京の空はいつもどんよりと濁り、曇っていたのかもしれない。
「壊れた心」は元には戻らないまま、昭和13年10月5日に智恵子は息を引き取る。光太郎と医師、看護士である姪の3人に見守られながらの死であったと草野心平は『わが光太郎』の中に書いている。この10月が来れば智恵子が死んで75年か。「あどけない話」から数えれば85年。智恵子も光太郎も、まさか阿多多羅山のある福島が、阿武隈川の流れる福島が、取り返しのつかない事態に立ち至るとは夢にも思わなかったろう。「ほんとの空」が損なわれ、失われ、在りし日の写真の前に挿した桜の花影に置かれた涼しく光るレモンが汚染されるとは。未来永劫に渡って。
 智恵子の52年の生涯。『智恵子抄』が刊行されるのは智恵子が死んで3年後の昭和16年のことである。高村光太郎は智恵子を失ったのち、東北の山奥に移り住み、独居生活を始める。
 昭和31年4月2日、高村光太郎没。死の3年前に戻った東京で73年の生涯を閉じた。いま、安達太良山には秋が来て、山々はあざやかに色づきはじめている。安達太良山の上にはたなびく真っ白な雲。風が流れる。ひゅうと流れる。どこまでも流れていく。光太郎と智恵子は阿多多羅山の上の青い空を眺めながら、「あどけない話」をしているだろうか。かつてない安らぎに包まれながら。それはいったいいつまでつづくか。いや、すでに損なわれ、失われてしまった。罪深い話だ。しかし、「ほんとの危険な話」がわれわれを待っている。阿多多羅山の上でもなく、阿武隈川のきらめく水面でもなく、在りし日の写真の前に挿した桜の花影に置かれた涼しく光るレモンでもなく、日々の糧、飲み水、空気、大地の中で。


 樹下の二人 高村光太郎『智恵子抄』より

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川
 かうやつて言葉すくなに座つてゐると、
 うつとねむるやうな頭の中に、
 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります
 この大きな冬のはじめの野山の中に、
 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを
 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう
 あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて
 ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり
 無限の境に烟るものこそ、
 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
 むしろ魔もののやうに捉へがたい
 妙に変幻するものですね
 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川

 ここはあなたの生まれたふるさと、
 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒蔵
 それでは足をのびのびと投げ出して、
 このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう
 あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう
 私は又あした遠く去る、
 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ
 ここはあなたの生れたふるさと、
 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地
 まだ松風が吹いてゐます、
 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい

 あれが阿多多羅山、
 あの光るのが阿武隈川



 レモン哀歌 高村光太郎『智恵子抄』より

 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白いあかるい死の床で
 私の手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関ははそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう



 亡き人に 高村光太郎『智恵子抄』より

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く
 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい
 私は白いシイツをはねて腕をのばし
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる
 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ
 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる
 あなたはまだゐる其処にゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる
 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ





     
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