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屋根裏部屋の王が創造した「掌の中の宇宙」

Breguet01.jpg

 目の前の机の片隅で月明かりを浴び、一個の懐中時計が光っている。眼を凝らすと水晶でできた文字盤に月が映りこんでいる。
 掌の中の宇宙に浮かぶ月。
 その懐中時計の名は [Marie Antoinette/BREGUET NO.160]。数奇な運命をたどった伝説の時計である。1783年、ルイ16世の妃、マリー・アントワネットは当代最高のキャビノチェ(時計職人)であるアブラアン・ルイ・ブレゲを直接呼びつけ、護衛官を通じて「すべての機構、装飾を盛り込んだ史上最高の時計」を作るよう命じた。あらゆる複雑機能と最新の装飾を要求し、費用無制限、納期無期限という破格の注文だった。
[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]は完成した時点で時計技術の最先端そのものであることを運命づけられていた。アブラアン・ルイ・ブレゲ本人が時計技術を次々に革新していくのであるから、新しい技術、機構を発明するたびに、それらは[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]に投入されなければならなかった。「技術革新」はブレゲにとっては自らを縛る頸であった。「永遠に完結しない完全性」を追い求めてブレゲは何度も設計をやり直し、落胆し、シシューポスの嘆きを味わったにちがいないことは容易に想像がつく。
 発注から6年後の1789年に勃発したフランス革命によってマリー・アントワネットは処刑されるが、何度かの中断を挟みながら、[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]の開発は密かに続けられた。さらに、ブレゲの死後も[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]の製作は続き、1827年、ブレゲの息子の代でついに完成した。マリー・アントワネットの「希代の注文」から実に44年の歳月が流れていた。
 パーフェクト・パーペチュアル・カレンダー(永久暦)、暗闇でも打鐘音で時を知らせるミニッツ・リピーター、重力の影響による誤差を修正するトゥールビヨン機構、二重の耐衝撃機構、均時差表示、金属温度計、パワーリザーブ表示、インディヴィジュアル・バトンとスモール・セコンドなど、ブレゲ開発による最新の技術が盛り込まれた時計史上に燦然と輝く最高傑作の誕生であった。

antoinette01.jpg

 私が[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を手に入れたのは1983年の春のことである。エルサレムのL.A.メイヤー記念美術館に忍びこみ、厳重なセキュリティを破って盗み出したのだ。私の掌の中で妖しく輝く[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]。時を知らせる道具の範疇を遥かに超えて、それはまぎれもなく「小さな宇宙」である。
 時計は見えない「時間」、存在しない「時間」を小さな歯車と螺子の集積によって視覚化する「時の芸術品」である。「時の芸術品」を生みだすキャビノチェは科学全般、哲学思想に秀でた大知識人でもある。彼らの社会的地位はたいへんに高く、人々の尊敬と羨望の眼差しを受ける存在だった。キャビノチェの語源は「屋根裏部屋(キャビネット)」。薄暗い屋根裏部屋で哲学の深淵と科学の粋を小さな機械に注ぎこむ時計職人を当時の人々は敬意を込めて「屋根裏部屋の住人(キャビノチェ)」と呼んだ。キャビノチェの哲学、思想、天文学、冶金学、金属学、物理学、音響学等に関する知識と技術の結晶が時計なのだ。そのキャビノチェの王として君臨しつづけたのがアブラアン・ルイ・ブレゲである。時計の歴史を200年早めたと言われる、古今東西に比類なき孤高の天才だ。ブレゲの顧客には王侯貴族、最高権力者、文学者、音楽家などが名を連ねる。かのナポレオン・ボナパルトやヴィクトール・ユゴー、バルザック、アレクサンドル・デュマもブレゲの時計を愛用した。フランク・ミューラー? ブレゲの前では赤児も同然である。
 
BREGUETNO16002.jpg

 [Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を見ていると、ブレゲが「宇宙の運行」をそこに込めたのではないかとさえ思える瞬間がある。
「時間を、宇宙をみつめなさい」
 ブレゲのそんな声が聴こえるようだ。29年のあいだ、私は常に[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]、ひいてはアブラアン・ルイ・ブレゲ本人に問われつづけてきた。「時間とはなにか? 宇宙とはなにか?」と。私が機械式時計に魅入られ、ついにはその究極のかたち、最終解答である[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を我がものにしようと考えたのは、「時間とはなにか? 宇宙とはなにか?」という問いへの解答を見つけたかったからにほかならない。答えはみつかった。もはや、[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]が私の手元にある必要も理由もない。そろそろ、マリー・アントワネットの元に[Marie Antoinette/BREGUET NO.160]を届けよう。彼女の墓に供え、両者を対面させるのだ。マリー・アントワネットは今度は時間を浪費することもなく、無意味な豪奢に囚われることもなく、ただ静かに時間を、宇宙をみつめることだろう。時の流れは死者の魂のありようさえ変貌させるのだ。

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