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究極のマティーニと古い友情の終わらせ方

 

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 古い戦友の命日。戦友との思い出がぎっしり詰まった酒場に足を運んだ。20年ぶりだ。戦友は探偵で、腕っぷしはめっぽう強いが泣き虫で、酔いどれの誇り高き男で、運に見放されていて、美人に目がないくせに女にはからきし弱く、「いつかゴビ砂漠のど真ん中で究極のマティーニを飲む。そして、死ぬ」が口ぐせで、ネイビーの、ペンシル・ストライプのダブル・ブレステッドのスーツしか着ない男だった。救いは彼が律儀で不器用で無愛想なうえに、うそがへたくそなことだった。
「究極のマティーニを。古い友情を終わらせたいんだ」
「タンカレーでおつくりいたしますか? プードルスもございますが」
「いや。牛喰いで」
 ニッカーボッカー・ホテルの名物バーテンダー、マルティーニ・エ・ロッシーニはとても礼儀正しくうなずいた。きれいに霜のついたバカラのカクテル・グラスの名品、「ロング・グッバイ」が目の前に置かれた。ホンジュラス・マホガニーの一枚板のカウンターの上でロング・グッバイが静かに息づいている。彼女が私に別れを告げるころには、私は彼女を何度も何度も抱きしめ、唇を寄せ、5粒ばかりの涙を彼女の中に落としているにちがいない。そして、したたかに酔いどれるのだ。今夜はそんな気分だ。誇りのたぐいはとっくの昔に行方不明なのだし、いまさら酔いどれたところで胸を痛めてくれる愛しい女もいない。かつての愛しい女は「さよなら」のひと言さえ残さずに金持ちの年寄りの愛人になった。それでいい。すこぶるつきのクールさだ。こちらはクールなタフ・ガイなんだ。勝負は互角という寸法である。
 それにしても、よりにもよって、「長いさよなら」とはな。「さよならは短い死だ」と言いつづけた探偵は強くもなれず、生きていくための資格を手に入れることさえできないまま本牧の路地裏で冷たい肉の塊になって死んだ。もう20年になる。探偵のことはときどき思いだすが、いつもというわけではない。
 友よ、マイ・プライベート・アイズよ。あんたは死に、おれは生きながらえ、偉大な眠りにはとんと御無沙汰だ。不眠はもう10年もつづいている。あんた同様、おれはいまだに強くもなれず、やさしさの意味すらわからないでいる。なんてマイ・フーリッシュ・ハートな人生なんだろうな。笑ってくれ。


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 私が遠い日の友との思い出に耽っているさなかに馬鹿笑いしながら若いカップルがやってきた。男はコークハイを注文し(コークハイだって!?)、女はテキーラ・サンライズを注文した。マルティーニ・エ・ロッシーニは眉を一瞬しかめ、ため息をひとつ、小さくついた。
 女の顔を見ると虫酸が走った。他人の手帳を盗み見ることにひとかけらの呵責も感じない魂のいやしさのたぐいが顔にあらわれていた。おまけに、使っている香水は濃厚なうえに動物的なにおいで甘ったるかった。第一、明らかに分量が多すぎる。香水のシャワーでも浴びてきたのかとたずねたくなるほどだ。ここは場末の安キャバレーではない。ここは何人もの本物の酒飲み、一流の酔いどれが巣立っていった酒場なんだ。ある種の人々にとっては聖地でさえある。香水女は臆面もなくそれらを蹂躙しようとしている。抑えようのない激しく強い怒りがこみあげてきた。
 おまえは店のすべての酒の香りを台無しにする気か? この店にある酒は蒸留という名の試練をくぐり抜け、いくつもの季節を樽の中でやりすごし、ときに天使に分け前を分捕られ、磨きに磨かれてやっと陽の目を見たんだぞ! 女の首根っこをつかまえてそう叱り飛ばしたかったが我慢した。香水女の指は太く短く、金輪際ナイフとフォークを使った食事をともにしたくないタイプの人物だった。いや、ナイフとフォークを使った食事だけではない。女が私の半径50メートル以内にいるだけで私は確実に食欲を失う。この広い宇宙にはテーブル・マナー以前の輩が確かに存在することを私はこのとき初めて知った。
 私の知る世界、生きてきた日々、失った時間や友情や愛をことごとく踏みにじり台無しにするおぞましい力をその若い女は持っていた。めまいさえ感じたとき、マルティーニ・エ・ロッシーニが毅然とした態度で言い放った。
「申し訳ございません。現在、当店はエクストラ・ドライ・タイムでございます。ウルトラ・スーパー・エクストラ・ドライ・マティーニか、少々お時間が早すぎますが、ギムレットなら御用意できます。コークハイは元町の信濃屋さんの真裏に当店よりずっといい、お若い方向けの店がありますから、そちらへどうぞ」
「お若い方向けの店」とマルティーニ・エ・ロッシーニが言ったところで私はあやうく吹き出しそうになった。「お若い方」を「愚か者」と言い換えればジグソー・パズルの完成である。シュレディンガー・キャットを見つけだすよりむずかしそうなジグソー・パズルの本当の完成はもうすぐだった。マルティーニ・エ・ロッシーニは言葉をいったん引き取った。香水女はショッキング・ピンクのハイヒールの踵を床にせわしなく打ちつけた。苛立っている。ざまあない。ここはおまえたちのような無作法者が来るところではない。マルティーニ・エ・ロッシーニは仕上げにかかった。
「テキーラ・サンライズはカリブ海のニュー・プロビデンス島経由でアカプルコ・ゴールド・コーストに出張中です。滞在先は年端もいかない少年少女をかどわかすことで悪名高いホテル・ザ・ローリング・ストーンズと聞きおよんでおります。したがいましてどうぞお引き取りください。次にお越しの際はフレグランスは控え目に。清楚で上品な香りのもの、たとえばジャン・パトゥの JOY かオー・デ・ジバンシー、ミス・ディオール、ザ・リリー・オブ・ザ・バレーあたりをお勧めいたします。それとこれは秘密情報ですが、今夜あたりから大声でしゃべったり馬鹿笑いすると島流しになるそうですよ。お気をつけください」
 マルティーニ・エ・ロッシーニが言うと、若い男は未練たらしく女々しい舌打ちをし、香水女は手持ちのうちでもっとも悪意と憎悪と愚劣が盛り込まれた笑顔を見せ、さっさとマルティーニ・エ・ロッシーニにさよならを告げた。そう、マルティーニ・エ・ロッシーニが言うとおり、いまこの時間、黄昏と闇の狭間の時刻、世界中のすべての酒場は一日のうちのもっとも聖なる時間、エクストラ・ドライ・タイムを迎えているのだ。聖なる時間を迎えている酒場は無礼無作法なうえに甘ったれた恋愛ごっこにかまける者の相手などできない。無礼無作法なうえに甘ったれた恋愛ごっこにかまける愚か者どもに供するグラスはひとつもないし、注ぐ酒は1滴たりともない。世界はそんなふうにできあがっているのである。


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「お待たせいたしました。当店自慢のウルトラ・スーパー・エクストラ・ドライ・マティーニでございます」
 マルティーニ・エ・ロッシーニは言って、ロング・グッバイの横に屈強な牛喰いどもが好む酒、ビーフィーター・ロンドン・ジン47度の扁平な瓶を置いた。鮮紅色の衣装をまとった牛喰いがこちらを睨みつける。
「ありがとう。ある探偵と飲み明かした夜以来だよ。ウルトラ・スーパー・エクストラ・ドライ・マティーニは」
「承知しております。この街は惜しい人を失いました。もう20年になりますね」
「おぼえていてくれたんだね」
「ほかのことは全部忘れてしまいましたがね」
「いい奴は死んだ奴だというのはいまも変わらない」
「まったくそのとおりです。ところで、お客様。警官にさよならをする手段は掃いて捨てるほどもありますが、友情を終わらせる方法はこの世界にはございませんよ」
「わかってるさ」


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 マルティーニ・エ・ロッシーニは私の胸のうちを見透かすようにマッキントッシュの古い真空管アンプリファイアーMC275のヴォリュームを少しだけ上げた。1949年10月14日、N.Y.C.ダウンビートのエラ・フィッツジェラルドが『As Time Goes By』を囁くように歌いはじめた。
 霧は深く、時はいくらでも好きなだけ過ぎていくが、夜はまだ始まったばかりだ。もちろん、ギムレットにも早くはない。やがて、古い友との友情の日々を思う長い夜がやってくる。急ぐ理由はなにひとつない。時は過ぎゆくままにさせておけばいいし、霧は深いままでいい。酒も傾ける盃もたんまりある。おまけに「究極のマティーニ」を知る伝説のバーテンダーは目の前でグラスを磨いている。これ以上の贅沢は世界への宣戦布告も同然である。50歳。もう敵は作らなくていい年齢だ。
 私は2杯目の「究極のマティーニ」を注文した。マルティーニ・エ・ロッシーニはきれいに霜のついたロング・グッバイに静かにビーフィーター・ロンドン・ジンを注ぎながら、「これはわたくしから天国のご友人に」と言ってグラスを私のほうへ滑らせた。マルティーニ・エ・ロッシーニの目からグラスに小さなダイヤモンドがひと粒こぼれ落ちたような気がしたが、それはたぶん、気のせいだ。本物のプロフェッショナルはそんなヘマを犯したりしない。究極のマティーニがかすかにしょっぱかったのも、やはり気のせいにちがいない。長い夜にはいろいろなことがあるものと相場は決まっている。

 友よ。マイ・プライベート・アイズよ。今宵、酔いどれの月はグレープフルーツのように丸く、遠い。再会までにいったい何杯の「究極のマティーニ」を飲み干し、いったい何回、酔いどれの月を見上げればいいんだ? 友よ   
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