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君よ、帰らぬ夏を惜しめ。Carpe Diem. その一日の花を摘め。

 

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 8月は夏が急ぎ足で通りすぎてゆく。永遠につづくかと思われた夏の終りの足音がかすかに聴こえはじめた。

 君よ、夏を惜しめ。Carpe Diem. その一日の花を摘め。



『夏の思い出』(江間章子作詞/中田喜直作曲)はすごく好きな歌だ。メロディも歌詞もすこぶるよい。夏の盛りがやってきて入道雲がわき上がった空を見ると『夏の思い出』を口ずさんでいる。
 こどもの頃、夏は苦手だった。夏の暑さがだめなのだ。いまでは信じられないことだが、私はどちらかと言えば腺病質のこどもで、同級生が夏の訪れを心待ちにしてはしゃいでいるのを横目で見ながらだれにも気づかれないように溜息ばかりついていた。夏休みが来てもちっともうれしくなかった。
 エアコンなどまだ普及していない時代。窓を開け放し、扇風機をつけっぱなしにして部屋にこもり、本を読んだり考えごとをしているうちにいくつもの夏が過ぎていった。
 そんな私がひと夏の冒険旅行に出たことがある。小学校5年の夏休みのことだ。私はその当時、あるよんどころのない事情で母親から離れ、一時的に生物学上の父親のもとで暮らしていた。生物学上の父親はそのころ羽振りがよく、元麻布の有栖川公園の近くに豪邸をかまえ、「闘う家長」として彼の両親、彼の妻の両親、兄弟姉妹、そして子供たちとともに暮らしていた。居心地は最悪のはずだったが彼らは私を大歓迎し、愛でた。それでも、子供心にも自分が場ちがいなところに転がりこんでいることはわかっていた。私は極力彼らと顔を合わせぬために食事や入浴のとき以外は「図書室」のある地下に逃げこんでいた。「図書室」は内側から鍵がかけられるようになっていたので好都合だった。そしてなにより、蔵書の質と量がすごかった。学校や町の図書館の本はあらかた読んでいたので新しい本に飢えていた。そんな中で小田実の『何でも見てやろう』をみつけ、夢中で読んだ。『何でも見てやろう』を読み進みながら一刻も早く旅に出なければならないと私は思うようになっていた。
 私が「冒険旅行」を宣言したとき、生物学上の父親とその家族どものほとんどは猛反対したが、いつも私をからかってばかりいた腹ちがいの兄だけが味方についてくれた。その当時、腹ちがいの兄は東大の仏文科の学生で、東大全共闘の一員としてきな臭い日々を送っていたように記憶する。顔は青ざめ、頬はこけ、眼だけがギラついていた。長めの前髪がいつも顔にかかっていた。おおかた、『異邦人』のムルソーだか『罪と罰』のラスコリニコフだかを気取っていたのでもあろうが、男っぷりはそこそこのもので、家に連れてくるガールフレンドは美人ばかりだった。そんな兄は私の冒険旅行をめぐる「家族会議」のあいだ中、私のすぐ横にいて、ずっと私の背中に手を置き、さすってくれた。そして、「負けるな」「やっつけてやれ」と小声で私を励ました。
 やると決めた以上、だれが反対しようが決行するという私の気質はこの頃にはすでにでき上がっていて、綿密な旅程表と装備品リストと「旅の目的」をもとに私が反論すると、もはや異を唱えられる者はいなかった。大のおとなどもを説き伏せたときのうれしさ。そして、兄の満足げな表情はいまも忘れることができない。出発の朝、兄は私の手にそっと数枚の1万円札を握らせた。「がんばれ」とひと言だけ言って。


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 私の「冒険旅行」はひと夏をかけて北海道を一周するというものだった。フェリーで苫小牧に上陸し、あとはユース・ホステルを泊まり継ぐ。旅はもちろん面白かったし、たのしかった。多くの発見やたくさんの人々との出会いがあった。新冠のユース・ホステルでは仲良くなった高校生のグループやヘルパーのひとたちと競走馬の牧場までハイキングに行った。馬たちは茶目っ気たっぷりで、柵のそばまで行くと鼻息を猛烈に荒くしながら近寄ってきた。
 別れの夜、判官館の浜辺に出て焚火を囲んでいろんな話をし、歌をうたった。『今日の日はさようなら』をみんなで歌ったときには涙が止まらなかった。襟裳のユース・ホステルではオートバイで日本全国を旅している大学生と仲良くなった。オートバイの後部座席に乗せてもらい、次のユース・ホステルまで送ってもらった。あのときの大学生がいまもオートバイで日本中を駆け巡っていたらうれしい。
 土砂降りの雨の中でバスを待っているとき、長距離トラックが急停車し、「乗ってきな」と言ってリーゼントのあんちゃんがドアを開けた。私は少し迷ったが、彼の顔色がすごくよかったので助手席に飛び乗った。私が札幌で降りるまでカーステレオからはエルビス・プレスリーの曲がずっと流れていた。
 それらはなにがしかのかたちで、私の現在の財産になっている。しかし、あの遠い日の夏のいちばんの思い出は、「論理」によっておとなたちを説き伏せたという経験だった。
 北の国の夏は駆け足で過ぎてゆく。とりつく島もないほどに速く。秋の気配を感じた朝、私のひと夏の冒険旅行は終りを告げた。多くのときめきと幾分かのかなしみをともなって私の夏は過ぎていった。「帰らぬ夏」と思った。「帰らぬ夏を惜しめ」とも。
 夏。それはまぎれもなく「経験」の季節だ。経験の数だけ、ひとはなにごとかを獲得し、同時に、同じ数だけなにごとかを喪失する。ひとはそれを成熟と呼ぶ。


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 9月の風 - 松岡直也




     
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