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伝えたい言葉、伝えられない言葉

 
 
伝えたい「言葉」があった。しかし、それは伝えられない「言葉」だった。

電話口で泣きじゃくるメリケン帰りのバカ娘。数日前、私はわが要塞を訪ねてきたバカ娘とバカ娘の人生の同行者となるであろう若者、つまりは小娘と小僧っこを怒鳴り飛ばし、取りつく島もあたえず、追いかえした。

なにが「結婚」だ。なにが「愛している」だ。なにが「だいじなひと」だ。なにが「価値観がおなじ」だ。なにが「おたがいの一生を見届けたい」だ。なにが「お嬢さんを幸せにします」だ。幸せはするものでもなるものでもない。感じるものだ。寝言は寝て言え! 小僧! おまえたちにはおたがいが他人ではないことを生涯をかけて確認しつづける覚悟があるのか! バカ娘と小僧はほうほうのていで逃げ帰っていった。

メリケン帰りのバカ娘は電話の向こう側で泣きじゃくり、懇願し、理解を求めた。「死にたい」という言葉がバカ娘の口から出たときには胸がつぶれるかと思われた。胸郭の中心を針で軽くつつけば、一瞬にして私の胸は張り裂けていたにちがいない。私は万感の思いをこめて沈黙した。「語りつくせぬことについては沈黙せよ」というヴィトゲンシュタイン先生の言いつけを守ったのだ。後悔などしない。

私の選択と決断は正しい。そして、例によって私はきょうも、ただひとり荒野をめざす。瀟々と風の吹きすさぶ荒野の果てには天上の音楽が鳴り響く断崖があるはずだ。17歳の魚屋(ねりもの担当)には荒野と断崖がいちばん似合う。

ならず者たちが跋扈する荒野を横断し、断崖のかたわらにある気高い松の樹の根方で大いびきをかいて昼寝をする私はライオンの夢を見ているにちがいない。そのような私は、千尋の谷より何倍も深く険しい谷底から自力で這い上がってきた者でもあるのだ。であるがゆえに、であるからこそ、私は何者とも、何事とも妥協しない。いままでも、いまも、これからもかわらぬ。

私の心のかたちはスペードでもクラブでもダイヤでもない。ましてやハートなどではもちろんない。私の心のかたちはライオンだ。ライオンそのものだ。

そのバカ娘からメールが届いた。現在の心情が切々とつづられていた。近ごろは他者の文章(のみならず表現全般)に心を動かされることなど皆無に等しいが、バカ娘の文面からは揺らぐことのない意思の力が感じられ、しかも、私がもっとも重きを置く論理と叙情と情念とがほぼ完成されたかたちで表現されていた。そこにはいささかも「嘘」や「ごまかし」や「躊躇」がないように思われた。私はバカ娘のメールを読み、「ああ、これはもう手放す時期がきたのだな。もはやおれが教えてやれることなどなにひとつない」と思った。

バカ娘からのメールには『星に会う日』と題された一片の掌編小説のごときものが付されていた。私とバカ娘との数少ない、しかし彼女にとっては宝石のような「思い出」を題材とした随想風の文章だった。

わがバカ娘ながらよく書けていた。ある部分では不覚にも落涙を禁じえなかった。自らの名誉のために言うが、これは赤の他人が書いたものだとしても、私は同様な事態に立ち至ったろう。センティメンタリズムに流されているきらいがなくもないが、「センティメンタルでなにがわるい」と私自身がかねがね思ってきたことでもあるし、なにごとかからの「卒業制作」としてはじゅうぶんに及第点を与えられるだろうと思う。以下に紹介する。バカ娘の承諾は得ていないが、当然のごとくバカ娘は承知してくれるだろう。ここに公にすることが私から彼女への卒業証書である。

私の知りうるかぎりにおいて世界でもっとも心さびしい誕生日とクリスマスをいくたびもすごし、口さがない世間の下衆外道どもに「妾の子」と陰口をたたかれ、世界でもっともくやしい思いに歯ぎしりをし、世界でもっとも手ごわい父親を持ったわが愛しきメリケン帰りのバカ娘よ。それでもなお、世界は素晴らしく、人生はバラ色だ。健闘を祈る。

注記1:メールの最後には「リンダ・ロンシュタットさんが歌う『When You Wish Upon a Star』を聴きながら以下の文章を読んでね。すごくこわいけど、大好きなパパへ❤」という追伸があった。「大好きなパパへ」も「❤」も蛇足である。「秘すれば花」という極意を理解していない野暮天、うつけ者、大バカ者がしばしば踏む轍である。





星に会う日

20年前のある冬の夜、私は父と二人で星に会いにいった。部屋の明かりを落とし、窓越しに夜空を見上げると、星が私と父の上に音もなく降りそそいだ夜があざやかによみがえってくる。

「星に会いにいこう」

背中で父の声がした。振り返ると天体望遠鏡を抱えた父が立っている。父の顔を見るのは夏の初め以来だった。

「今から?」
「うん」
「外はすごく寒いよ」
「星に会いたくはないのかい?」
「会いたい」
「じゃ、おいで。あたたかくするんだよ」

父は私を自転車の荷台に乗せ、ひと気の失せた商店街を猛スピードで駆け抜けた。頬をかすめる風が痛い。私は振り落とされまいと必死で父の背中にしがみついた。ポマードと煙草の入り混じった父の匂い。父の体温や心臓の鼓動までが伝わってきた。それほど間近に父を感じるのは何年もなかったことだ。私はしがみつく腕にいっそう力を込めた。

30分ほど自転車を走らせて着いたのは団地の造成現場である。夏、かぶと虫やくわがたを捕まえた山の半分近くが切り崩されていた。私と父はフェンスの破れ目から中に忍び込んだ。

「てっぺんまで競争だ」
「あ、ずるいー」

父は言うが早いか走り出した。私も懸命に父のあとを追った。山の頂上からは夜の静寂の中に揺れる街を見渡すことができた。頂上は街中よりもさらに寒く、吐く息が綿のように白い。父は天体望遠鏡の三脚を立て、北の空に向けた。それから手際よくつまみやレバーを操作し、焦点を合わせた。

「のぞいてごらん」

真ん中にぼーっとした輝きを放つ雲のような星のかたまりが見えた。翼を広げた鳥のようにも見える。私は思わず驚きの声をあげた。

「オリオン大星雲だよ」

私がスバルを見たいというと父は望遠鏡の向きを変えた。

「なんですぐにわかるの?」
「ここに、」と言って、父は自分の胸に手を当てた。「ここに星が宿っているからさ」

父の顔にはにかんだような笑いが浮かんだ。何年ぶりかで見る父の笑顔だった。私と父は地面に寝ころび、星々のさんざめく夜空を見上げた。

「あれがオリオン座。その向こうが冬の大三角形」

父は星空を指差し、ひとつひとつ星座の名前とその由来を私に解説し、星のことや宇宙のことについて身ぶりを交えて話してくれた。

「この望遠鏡じゃ見えないけど、今も、宇宙のどこかで星が生まれてるんだ」

そう言ってから、父は囁くように歌を口ずさんだ。それは心の奥深くに染み込んでくるメロディーだった。

「なんの歌?」
「星に願いごとをすれば、いつかきっと夢はかなうって歌だよ」
「本当に願いごとはかなうのかな?」
「かなうさ」

父の口ずさむ歌のメロディーを口笛で真似ながら心の中でそっと願いごとをつぶやくと、急に涙があふれてきた。涙はあとからあとから、いくらでもあふれてきた。涙で星がにじんで、揺れた。

「泣いてるのかい?」
「うん」
「そうか」

私と父の間に深い沈黙がおちた。

「ごめんよ」
「え?」
「一緒にいてあげられなくて」
「いいよ。だいじょうぶ。お星さまにお願いしたから」

夜空の星はきらめき揺れつつ、私と父の上に音もなく降りそそいだ。


When You Wish Upon a Star/星に願いを

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