雨上がりの日曜の世界が光匂い満ちてあるように。 E-M-M
正確に35年ぶりにリッチー・バイラークのピアノ・ソロ作品、『Hubris』を聴いた。1曲目、『Sunday Song』がしみた。とてもしみた。
『Hubris』を手に入れたのはキース・ジャレットをはじめとするECMレーベルの音源をすべて集めようとしているさなかだった。
生まれて間もない嬰児をかき抱くように『Hubris』を抱いて帰った。部屋に着くなり、アンプリファイアーに灯をいれ、DENON DL-103の針先をメンテナンスし、厳粛な儀式に臨むような気分で『Hubris』の汚れのない盤面に針を落とした。1曲目、『Sunday Song』。かすかなスクラッチ・ノイズのあとに、透明で悲しみさえたたえたピアノの音が聴こえはじめた。一ヶ所、なんの前触れもなく転調するところでは心が軋み、揺れた。ミニマルとも思えるような主旋律が繰り返される。そのメロディは心の奥深くまで染みこんでくる。染みこみ、静かに、とても静かに揺らす。揺さぶる。揺りかごの中で揺れているようにも思える。母親の白く細い腕と手さえみえるようだ。なぜか涙があふれた。涙は次から次へ、はらはらといくらでも出た。
『Sunday Song』。5分24秒の悲しみ。3度目の「5分24秒の悲しみ」が終わろうとするときに電話が鳴った。
「OとTが死んだ。コンテナに突っ込んだ。即死だ。本牧で。本牧埠頭で」
電話の主はうめくように言った。必死に涙をこらえているのがわかった。1978年6月16日金曜日の夕方、雨上がりだった。雨は前の週から1週間も降りつづいていた。
電話をきり、再び、『Sunday Song』、「5分24秒の悲しみ」に針を落とした。そして、繰り返し聴いた。『Sunday Song』が葬送の曲のように聴こえた。早すぎ、惨すぎる死を迎えた二人の友の底抜けの笑顔が浮かんでは消えた。
「いきなり転調しやがって。”革命的な死” ”英雄の死”ってのはこのことかよ。へたくそなポロネーズだ。愚か者めが」 何度目の『Sunday Song』だったか。部屋の中が急に光に満たされた。あたたかくやさしくやわらかな光だった。幾筋もの光の束がまわりで舞っていた。純白の睡蓮の花弁からこぼれでるおぼろげな光。その光の束はジヴェルニーからやってきた淡く儚くおぼろな光だった。
やがて光の束は窓を抜け、晴れ上がった世界のただ中へ帰っていった。それは死んだ友の葬列ともみえた。そして、『Sunday Song』を、『Hubris』を封印した。二人の友の思い出とともに。
35年が経った。もうそろそろ封印をとこう。彼らについて語るときがきたのだ。たとえそれが他者にはどうでもいいようなことであっても、私にはかけがえのない時間、世界、言葉を孕んでいるのだから。彼らを思い、彼らの笑顔を思い、彼らの言葉を思って語りはじめよう。そして、雨上がりの日曜には『Sunday Song』を繰り返し聴くことにしよう。雨上がりの日曜の世界が光匂い満ちてあるように。(Closed BooK)
Sunday Song - Richie Beirach
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シークレット・コメントなんぞという腐れたことはするな。それが「吾輩文体」だ。おぼえとけ。