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うつむきかげんのショータイム#006

 

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『スカンク・ボブのエクソダス』をめぐるノート
 
すでに本やノートに書いてあることをなぜわざわざ記憶しなければならないのかね? A-E

すでに終わった世界について記述する意味があるとすれば「未発見の笑い」の開拓である。 E-M-M


「ニナガワ」の裏社会の者ども、修羅の群れとの丁々発止を描くことは必須だろう。
愚鈍愚劣な「悪」も登場させるべきである。ガジンやビーマルには見せないように用心し、実際、見せていなかったが、吾輩が渡り合ってきたのはそういった輩どもである。
オーエとその取り巻きどもに象徴される「卑欲」「卑しい魂」に蝕まれた輩どもも登場させるべきだ。
「エンドウ」のおばちゃんはいいキャラクターだ。もっと登場させることをすすめる。「戦前の独逸留学経験を持つ爺さん」も。
イトービーマルに象徴される「臆病姑息小児病患者」も。
「生への意志」は「死の希求」でもあるだろう。
端的に言って、この世界は「生きつづけるに値しない世界」である。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるほどに馬鹿馬鹿しい世界だ。
われわれが少年時代から青年時代を生きた時代はドラマツルギーという観点から言うならば「いい時代」だった。冷戦、南北問題、核の冬、ベトナム戦争、公害。終末や絶望がリアリティをもってわれわれの現前にあった。いまや、終末と絶望のプレゼンスは影をひそめ、弛緩した時間だけが広がっている。「お手軽に生き延びることができる世界」は「生」の意味を間延びさせ、「生」の意欲を減退させ、「生」をつまらなくする。三島由紀夫が自裁したのはそのことを精緻明晰に読み取ったからであるというのが吾輩の考えである。

世のインテリゲンチャ、知識人、文化人どものつらをよく見てみろ。どいつもこいつもつまらぬつらをしている。東浩紀という若造小僧。あんな者が吾輩の身近にいたらケチョンケチョンのコテンパンにされ、引きこもり人生だ。その他の有象無象も同様である。そのような輩が大手を振り、肩で風を切ってのさばっている。

クールになること
スマートであること

文体をもっと引き締めろ。「文体の強度」「文体の硬度」が足りない。フリーライターもしくはフリーライター経験を持つ者がしばしば陥る「品性品格のない文体」があちこちに顔を出している。
文体の硬度
文体の強度
文体の難度
文体の軟度

つねに、いついかなるときにも「編集者」であれ。
説明的でないこと。
説明的であってはならない。
説明しなければ伝わらないことは説明する価値のないことである。
報告的であってはならない。
書き手は王である。
まわりくどくあってはならない。
対象の周囲をまわればまわるほど核心から離れていくものだ。
核心に一気に迫ること。
権力への意志
何度でも読み返し、削り、研ぎ、研ぎ澄ますこと。
「てにをは」と「句読点」
「、」と「。」
独自の遠近法=パースペクティブ
文体の遠近法=パースペクティブ
プロフェッショナルとして広告制作に携わったことも大きいだろう。
文体と編集
緊張感と文体
緊張感。張りつめた空気。殺気。妖気。そういったものを常にどこかに忍ばせておこうとする態度は必要だろう。書かずに、語らずにそれができたら言うことなしだがね。
「技術」としての文体
「テクノロジー」としての文体
「思う」「考える」「感じる」は極力使わない。
苗字を漢字で表記しない。これはそこそこ厄介だ。村上春樹を評価するきっかけは野郎が「漢字の苗字」をほとんど使わない点だった。吾輩は村上の「名前」に関して取る態度を「人間も世界も記号としてとらえる」と解釈した。
吾輩は「漢字の苗字」が出てくる小説、物語はすべて斜め読みだ。例外は芥川以前だけだな。
「場」としての
修羅場と文体
文体修行について
決して「文章修行」ではない。「文体修行」である。
鎌田東二で文体修行
戸田ツトムで文体修行
ピカソで文体修行
「読み手」「読者」を想定しない。ハードルを下げれば自身も下がり、ハードルを上げようとすれば背伸びになる。「読み手」「読者」からテーマ、コンテンツを引っ張りだしてくるのはいいとしてもね。
世界にあふれ返っている表現、テクストを見てみるがいい。ポンコツボンクラヘッポコスカタンだらけだ。言語表現をめしのタネにしているやつらも含めてだ。故障した日本語、おもねった文体、志なき表現。お話にならない。小学生レベルのポンコツボンクラヘッポコスカタンが「物書きづら」して大手を振り、肩で風を切っているという救いようのない事態。インターネット上にあるテクスト、表現についてもひどいもんだ。ブログに見るべきもの読むに値するものなど数えるほどだ。どいつもこいつも「ライフスタイル自慢」「センス自慢」「仲良しごっこ」にうつつを抜かして日も夜もない。しかも、書かれているテクストは故障した日本語だらけときている。

単独者と文体
「快楽との訣別」が文体の強度を高める。少しく詳しく言うならば、快楽に翻弄されない精神をわがものとするというこったな。さすれば、女ごときに焦がれることもなくなる。惑わされなくなる。小林秀雄は「女の腰つき」に翻弄されてずいぶんと難儀したようだが、吾輩はその点については小林より早く「女の腰つき」なんぞ屁とも思わなくなった。いまでもおねいちゃんどもとはヤリまくり、蕩けさせまくってはいるがね。それもまた吾輩の「文体修行」の一貫である。
言葉の虜囚となってはならない。言語至上主義者になってもいけない。言葉を飼いならし、番犬、自家薬籠中のドスとせよ。吾輩は「泡の時代」に経験した丁々発止の数々を契機として腹を括った。なにについて腹を括ったかと言えば、
そして、吾輩は結論をえた。「言葉も思想も思っているほど役に立たない。ならば、研いで研ぎまくって切っ先鋭くし、宇宙にただ一本の自分のドスにしてやればいい。古今東西に並ぶものなき名刀。エクスカリバーも菊一文字も関孫六も凌ぐ吾輩ナイフにしてやればいい」と。

恥を知る文体
身辺雑記は表現しない。書かない。ユトリロの絵などにはひとかけらの価値もないというのが吾輩の考えだ。「家具の音楽」とやらのエリック・サティの音楽にもな。
たとえば、いまはGWの時期だが、書き出しにいきなり「GWですねー」とくるやつ。「GW」の二文字を目にしたとたんに吾輩はそのブログを閉じる。そして、二度と開かない。GWにGWの身辺雑記を記すことになんの意味があるんだ? そういったポンコツボンクラヘッポコスカタンは雨が降れば「雨ですねー」、晴れれば「いい天気ですねー」、地震があれば「揺れましたねー」、津波があれば「津波ですねー」、原発がメルトダウンすれば「メルトダウンですねー」、そして、いよいよ自分が死ぬときには「死にますねー」といった具合だ。このことはすべてについて言える。まったく評価しない太宰の言葉に「1行読めばわかる」というのがあるんだが、これはいいことを言っている。吾輩の場合は1行どころか2文字でわかるがね。言われたのは吉本隆明なわけだが。この言葉のあとに、太宰は吉本の無精髭について言及し、「太宰さんにも重かった時期がありましたか?」とたずねた吉本に、「きみきみ。男性の本質はなんだかわかるか? マザーシップだよ。やさしさだよ。きみ、その薄汚い無精髭を剃れよ」とほざく。こういうところが吾輩が太宰を気色悪いと思うところなんだな。「芥川賞を獲らせてくれ」と川端に泣きつく女々しさ、道連れがなけりゃ死ねないようなポンコツボンクラヘッポコスカタンというオチだ。太宰をいいというやつらは、こういう太宰の女々しさがいいんだろうな。なにが「生まれてきてごめんなさい」だ。吾輩ならさしずめ、「生まれてきてやったぞ。馬鹿野郎!」だ。

スープに毛が入ってああじゃねえこうじゃねえという文脈はスパゲティ・バジリコが滑った転んだの村上春樹にも脈々と受け継がれている。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などにはまったく価値がない。吾輩の評価は「甘っちょろい」だ。村上春樹は本当の意味の裏切りを経験していないだろう。背かれ、指弾され、追放された経験もないだろう。だから、村上春樹は「甘っちょろい」のだというのが『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』以後、村上春樹とほぼ同時代を生き、現在に至る村上春樹についての吾輩の結論、総括である。

村上春樹はうまくはあるが強度がない。ハルキンボの坊やは、やはり、おなじように「甘っちょろい」ポンコツボンクラヘッポコスカタンどもの「不全感」の補填に精を出せばいい。

吾輩は村上春樹を見切った。機会があれば村上春樹に吾輩の白刃の切っ先を突きつけてやる。そのときの村上春樹のカワウソとアマガエルが合わさったような能天気なツラがどのように歪むのか? 今から楽しみだ。

「ポスト3.11」に関すること/恥知らずどもにむごたらしい死を!
震災、F1-1, 2, 3メルトダウン以後の世界を、吾輩は「恥知らずどもが露わになる世界」とみた。3.11の直後のことだ。「友愛」だの「絆」だのという実現の道筋なき上滑りした言説を目にするにつけ、「どうせおまえらはすぐ、恥も知らぬげに『オサレなランチ』やら『豪華絢爛ステキステキのディナー』やら暮らし自慢やらライフスタイル自慢やら仲良しごっこやらで浮かれ騒ぐんだろう」と思っていた。案の定だ。みてみろ。ネット上に溢れ返る故障した日本語まみれの恥知らずどもの言説を。反吐が出る。

「悲劇」「深刻」ではなく、「喜劇」「軽妙」として描くことはできないのか? 3.14のF1, F2, F3におけるメルトダウン以降の日本人の緊張感のなさ、弛緩ぶりをみてみろ。どいつもこいつも能天気、お気楽極楽に「わが世の春」とばかりに「オサレなおランチ」やら「豪華豪勢ステキステキなディナー」やらライフスタイル自慢やら暮らし自慢やら仲良しごっこやらで日も夜も明けぬ極楽とんぼばかりという事態を。朝めしやら晩めしやら無印良品で手に入れた「歯ブラシ立て」を御丁寧にも画像付きでさらして悦に入っているという事態。グロテスクなエゴイズムをさらすことになんらの躊躇もない外道どもの群れ。見方を変えれば、それほどに人間はおめでたくできているということだろう。そういった輩どもの共感をえる必要などこれっぽっちもないが、「悲劇」「深刻」「苦悩」に彩られた主題を「喜劇」「軽妙」「洒脱」で逆視することのほうが「強度」を持ちうるというのが吾輩の考えだ。吉本隆明の文体で古典落語、三河万歳をやること。

病みながら生きる治療者たちを登場させること。
『カラマーゾフの兄弟』のニーナとアリョーシャ、そして『悪霊』のチーホン僧正
「傴僂の天使」と称されるニーナは、貧しく諍いの絶えないカラマーゾフ一家の「守護天使」のような存在だった。深刻な業病に蝕まれたニーナは家族をケアする存在であり、重い障害を抱えながらなお魂の美しさ、人間愛を持つ存在。ニーナはアリョーシャや『悪霊』のチーホン僧正とともに「病みながら生きる治療者の系譜」に属する人物だ。そこには人は病んでなお「健やかさ」を持ちうるというヒョードル爺さんの人間観と病みながら生きる者への畏敬の念をうかがうことができる。このヒョードル爺さんの主題はいまも有効だろう。


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    [C98] そこに喜劇がはじまる

    まず、丁寧な批評、ありがとう。
    今、困憊しているので上手くまとめられないと思うが、あんたの批評を読んで感じたことを記す。
    いちばん刺さったのは「悲劇」ではなく「喜劇」として書くことはできないのか、というフレーズ。あんたは「快楽」というキーワードを使ったが、オレの場合は「病」だな。自身の「病」からどれだけ距離をおくことができるか。「訣別」は不可能だが、おそらくそれが精神の緊張を生み、文体に強度をもたらす。そして、そこに「喜劇」がはじまる、というわけだろう。
    たとえばベケット。奴も分裂症者だが、「病」から身を引きはがした故に「ワット」という傑作喜劇をものすることができたのだとオレは考える。
    だめだ、意識を集中させることができぬ。続きは改めて書く。
    • 2013-05-20 06:52
    • Guido Fawk
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    Author:自由放埒軒
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