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東京24区。#1 彼女のグノシエンヌ

 

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 東京に生まれることはひとつの才能である。 蓮實重彦
 東京に生きることはひとつの災難である。 E-M-M


 ある推理と妄想/19世紀末世界と彼女の午後の最後のグラス


 キーワードは「洗濯」と「サティ」と「昼下がりのワイン」だ。

 気になってしかたないのは、

 1. 彼女はエシレのクロワッサンをいったいいくつ平らげたのか。

 2. ヴァンはブランとして、ブルなのかボルなのか。グラン・クリュはそぐわない。プイィ・フィッセでスカしたか。シャブリでクールにキメたのか。はたまた、チリの「サンタ・カロリーナ」というCP抜群の大技をぶちかましたか。環境音楽にサティをもってきているところからするとおふらんす物以外は考えにくい。

 3. サティは『ジムノペディ』はないはずだ。「苦しみ」も「悲しみ」も「厳粛」もエシレの三日月と火曜の午後にはふさわしくない。とすると、室内は「知の胎内」でもあるわけだから、『グノシエンヌ』なら整合性がある。だが待てよ。あえてどんでん返しとしてヴァンをグラーヴの赤を外しズラしで選択して、厳粛な気分でエシレの三日月とともに飲み、食すことを狙ったのであれば、19世紀末世界の気怠い午後を追体験するという都市ロマンの扉を開くことができる。ここは『ジムノペディ』に決定だ。

 彼女は40代半ば。アラフィフまでのカウントダウンはすでにして始まっている。仕事はできる。周囲の評価は高い。才能と実績もある。しかし、彼女はしっくりこない。「わたしが本当に求めているのはこんなことじゃない」といつも思っている。ほぼ美形。やや外反母趾。右足の小指に不愉快な痛みをかかえている。静脈の浮き出し具合はかなりセクシー。歯茎の色と艶と弾力にはかなり自信がある。愛用の歯磨き粉はOra2のストライプ・ペーストだ。使用済み歯ブラシの収集は趣味のひとつだが他言はしない。かつて、歯ブラシをめぐって修復不能の争いに巻き込まれた経験があるからだ。彼女は歯ブラシはときとして人格を変貌させることを学んだ。以来、歯ブラシの「は」の字さえ口にしないように注意している。少々、窮屈ではあるけれども無用の諍い、対立の矢面に立たされるよりはましだ。

「大きな仕事」をクール&スマートに片づけて直帰した昼下がり。初夏のような熱と空気が東京を包んでいる。東京の街はクレープデシンやコットンリネンやピケやコードレーンやシアサッカーの夏服に身を包んだ気の早い女たちがややあごを突き出して歩いている。エンドゾーンまで80ヤード独走しそうな勢いだ。どの女たちの顔をみても週末の夜のお愉しみを目前に美しく健康的で、適度にエロティックで、いきいきとしている。「いい週末を」と思わず声をかけたくなる。
 東京24区。24区? そうだ。東京24区だ。トキオ・ヴァンカトル。部屋は空虚が4割、充足が2割、残りの4割はアメリカン・ショートヘアの餌とソバージュ・ネコメガエルのエクリと食べかけの「絶望のパスタ」が受け持っている。
 帰りがけに買ったエシレのクロワッサンは2個。ついでにバターも。エシレの三日月とバターを紙袋から出すと、彼女は紙袋をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ込む。内角高めのストレート。エシレのフランス伝統色を基調にしたエレガントでシックでクラシカルな紙袋は見事にゴミ箱の胸元へ。ストラック・アウト!
 彼女の口ぐせは「トーキョー、24区、朝。」だ。24区? 再度言う。彼女は東京24区の住人である。実際には彼女が住んでいるのは千代田区九段下の高層マンションだが、彼女は頑なに「東京24区の住民」であると言いつづけてきた。1995年以来、彼女のハンドルネーム、IDは「トーキョー・ヴァンカトル・ウーマン/tokyo vingt-quatre woman」だ。ここは波風を立てずに彼女の意見、意思を尊重しておこう。

 Macを起動し、iTunesでスマートプレイリストの中から『家具の音楽/サティ』を選択。洗濯物からありえないほどよく汚れが落ちるアリエールの香りが東京の5月の風に乗って彼女の鼻先をかすめる。『ジムノペディ』の第1番「緩慢と苦痛」(Lent et Douloureux)が部屋をゆったりと舞いはじめる。3/4拍子の優雅で静寂さえまとったテンポ、装飾を極力排除したシンプルな曲調、哀愁を帯びた旋律。古代ギリシアの神々、アポローンやアプロディーテーやアルテミスやヘルメースやポセイドーンが踊りだす。
 若いゼウス、ディオニューソスが登場したところで彼女はデキャンティングの済んだヴァンをグラスに注ぎ、神々に乾杯した。彼女はひと口飲み、5月の透明で爽やかな陽射しを浴びながら膝の上に先週から読みはじめたギュスターヴ・フローベールの『サランボー』をひろげる。少し物憂いけれども、いい午後になりそうだった。気が滅入ったら窓をあけて風に吹かれ、東京の5月の陽を浴びればいいだけの話だ。それですべてうまくいく。少なくともこれからの数時間、火曜日の午後は。


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(TO BE CONTINUE)




     
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