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近所の「角の加藤のふつうのそば屋」のカドー・パンセ・ソバージュ

 

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そば屋は近所と相場が決まっている。E-M-M

2003年冬。私はひとりだった。徹底的にひとりだった。後にも先にも、あのころほど自分がひとりぼっちであると思い知らされたことはない。

その年の冬はシベリアからやってきた猛烈な寒気団が長いあいだ日本列島周辺に居座り、鼓膜が凍りつくくらいきびしい寒さが何週間もつづいた。寒さに加え、私自身にとっておそろしく風向きの悪い日々がつづいていた。色々なことがよくない方向に動いていた。みえない悪意の矢があちこちから放たれて、私の急所に突き刺さった。

陰険で冷ややかな痛みがいつも全身にまとわりついていた。唯一の気晴らしの場だった釣り堀は大規模開発の余波をくらって影もかたちも消え失せた。「これ以上、おれの居場所を奪うなよ。気休めの場所さえも奪うのか」と私は大声で怒鳴りたかったが、怒鳴る相手の姿はどこにもみえなかった。そんなような陰湿でいやな風向きの悪さだった。

2003年の冬はいまのアパートに引っ越してきて3度目の冬だった。住んでいたアパートのならびの角に古いそば屋があった。「角の加藤のふつうのそば屋」というちょっと変わった名前のそば屋だ。店に入ったこともなければ、出前を注文したこともなければ、店のひとと挨拶を交わしたこともなかった。

2003年冬の最低気温を記録した朝。無性にあたたかいものが食べたかったが台所にまともな食材はなにひとつなかった。私は出前を頼むことにした。出前を頼むのは生まれて初めての経験だった。本当のことを言えば飲食店に入ったこともない。もっと本当のことを言えば近くに家族以外の人間がいる場所で食事をしたことすらない。物心ついてからは家族ともだ。小学校の給食も一人で食べた。中学も高校も。

他者の視線があると胃が締めつけられた。それだけではない。口が思うように開かなかった。無理矢理食べものを口にし、咀嚼しても飲み込めない。食道を落ちてゆかないのだ。最後に一番の本当のことを言えば、私は他者がこわくてしかたない。すべての他者は私に悪意と敵意と憎悪を抱いているとさえ感じる。この世界の無数の顔の見えない他者の中には私のうしろにそっと忍び寄り、私のうなじをカミソリで切り裂く者がかならず一人か二人、いや五人はいる。多く見積もれば十万人はいると思う。

昼めしどきをすぎ、ひと気がなくなったころを見計らってから部屋をでて、意を決してそば屋の引き戸を引いた。そして、たぬきそばの大盛りを届けてくれるように頼んだ。私の注文を受けたのは成田三樹夫にそっくりのひょろっとしたおっさんで、それがそば屋のおやじだった。

「たぬきそばの大盛りをひとつ出前してほしいんだけど」
「へい。カドー・パンセ・ソバージュ大盛り一丁!」
「えっ!? たぬきそばなんだけど」
「うちのたぬきそばはカドー・パンセ・ソバージュってんだよ。工藤ちゃーん」
「ああ。なるほど。わかりました。でも、ぼくは工藤じゃない」
「工藤ちゃーんじゃないの? わかったよ。工藤じゃない工藤ちゃーん。すぐに届けるよ。ところで、あんた、顔色がすごく悪いけど、だいじょうぶか? 工藤じゃない工藤ちゃーん」

そう言って、成田三樹夫似のそば屋のおやじは心配そうに私の顔をのぞきこんだ。

部屋に戻るとほぼ同時にドアをノックする音がした。ドアをあけると成田三樹夫似のそば屋のおやじが立っていた。フレンチ・ブルーのトレーにのせられたカドー・パンセ・ソバージュのトリコロールのどんぶりからあたたかそうな湯気が立ちのぼっていた。

「メルシー・ボークー。いつもそばにいるよ。工藤じゃない工藤ちゃーん」

帰り際、そば屋のおやじはそう言って笑った。さらに、「そばにいなけりゃ、しゃきっとした蕎麦を喰わせられねえからな」と言い、手のひらのはしで鼻をこすりあげた。そして、ベン・E・キングの『スタンド・バイ・ミー』を演歌風に歌った。聴いたこともないような調子っぱずれの『スタンド・バイ・ミー』だったが、なぜだかとても心にしみた。ベン・E・キング本人が歌う『スタンド・バイ・ミー』よりもしみたのではないかと思う。

成田三樹夫似のそば屋のおやじが届けてくれたカドー・パンセ・ソバージュはあたたかく、麺は歯ごたえがちゃんと残っていた。おいしかったが、少しだけしょっぱかった。しょっぱかったのはつゆの味が濃かったからだけではないと思う。食べ終えるとぽかぽかした。心もちょっとだけぽかぽかした。

あれから10年が経つが成田三樹夫似のそば屋のおやじはいまも「いつもそばにいるよ。工藤じゃない工藤ちゃーん」のせりふとともにしゃきっとしたうまいカドー・パンセ・ソバージュをすぐに出前してくれる。もちろん、演歌風の調子っぱずれな『スタンド・バイ・ミー』を欠かすことはない。近所のそば屋のあたたかくて、ちょっとだけすてきな贈りものだ。

いつか、もう少し私の心があたたかくなって、もう少しだけ強くなったら、寒い冬の夜に成田三樹夫似のそば屋のおやじの打ったそばを肴におやじと酒を飲んでみよう。
そのときのそばと酒はいったいどんな味がするんだろうな。いまからたのしみだ。私は少なくともひとりぼっちではなくなった。ただし、私の苗字は「工藤」ではない。江藤だ。


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