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うつむきかげんのショータイム#003

 

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 絵に描いたステージは 裸の王様たちのメッセージ
 声にもならない 僕たちのblues
(L-S-D)

 文体とは世界の息づかいである。 (E-M-M)


「宇宙を支配する巨大な意志の力」の導き2 自由放埒軒 2013-05-05 18:13

 
 3. 記憶力と文体
 さて、ここからいささか面倒厄介なフェーズに突入する。記憶、そして、記憶力の問題だ。吾輩は「記憶」を時間の集成集積ととらえている者だが、これが至極厄介だ。吾輩の「記憶」に関する諸問題の一端は「CEST(UTC+2)2012年10月27日午前3時2分の『LATE FOR THE SKY』#1」に書いてある。
 吾輩は幸か不幸か、生まれながらに記憶力がいい。母親も父親も記憶力がよかったところからするとこれは遺伝的な形質であると考えてよい。こどもの頃から記憶力に関するパフォーマンスを褒められる局面が多かったが、吾輩は「記憶力がいいこと」にはなんらの意味も価値もないと考えている。失われた時間の集積をおぼえていたところでえられるものなどほとんどない。いやなことを思いだすほうが多いのだから当然だ。

「吾輩の記憶」に関することでいいと思えるのは「記憶の集積」「失われた時間」をランダムで読み出すときの精度と速度が常人よりも正確で速いということだろう。吾輩が言う「疾走する精神」とは「記憶の集積」「失われた時間」を読み出す精度と速度に関することだ。比喩暗喩でも象徴的なことでもない。実際に起こった出来事、過去の事実が猛烈なスピードで吾輩の意識を疾走し、駆けめぐる。そういうことだ。このことは吾輩にとってはきわめて具体的、リアルな現象である。嗅覚を刺激されることもある。ある記憶があるにおい、映像、音をもたらすこともある。プルーストの『失われた時を求めて』の紅茶とマドレーヌがきっかけで遠い夏の出来事が生起するという話を読んだときは「だからどうした?」との感想しか持たなかったな。「そんなものは当たり前のことだろうが」とね。

 文章ならびに文体というのは各品詞の組み合わせによって善し悪し、スタイル、オリジナリティが決まる。品詞は有限だ。幽玄なる世界を生み出せるにしてもね。有限なものを用いて表現をするのであるから、そこには曖昧さ、不明瞭さがあってはならないというのが吾輩の立ち位置だ。視線、眼差しが行き届いていること。精緻であること。明晰であること。それは常に、いついかなるときにも心がけている。妄執妄念に苛まれて腐りゆく女のことを言語化するときであってもだ。視線、眼差しが行き届かず、曖昧で不明瞭な表現は、吾輩にとってはすべて「だらしない」ということである。目が行き届かず、目配りがきいておらず、だらしのない表現にはいささかも価値がないというのが吾輩の考えである。もっとも、吾輩はそんなものには一切コミットメントしないがね。表現されたものにも、それを表現した者にも。なににつけてもだらしないのはいけない。性にだらしないのは男でも女でも「物静かに退場しろ」というのと同様に、あらゆる局面でだらしのないものを吾輩は憎む。ときに踏みつぶす。あらゆる法令、あらゆる手練手管を駆使してだ。

 精緻と明晰。これに寄与しているのが法律書を渉猟したことでえたリーガル・マインド、法律家気質だろう。これは文章、文体、言語表現の技術に関わることだ。表現、表出だけでなく、評価、鑑賞のときもリーガル・マインドは強く働いている。ルーブル美術館でジャック=ルイ・ダヴィッドの『皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式』を丸一日眺めているとき、吾輩はボナパルトの野郎を逮捕し、強制捜査に持ち込むネタはないかと横9メートル、縦6メートルの巨大な画面の端から端、隅から隅まで計測、分析した。
 言語表現するとき、吾輩は吾輩の価値観、世界観、美意識にフィットしているか否かを常に計測しながら行っている。「内なるリズム」に合致しているかどうかも含めて。

 4. 2ちゃんねるという「文体の戦場」
 2ちゃんねるは言葉の戦場だ。視えない敵と視えない自由のために視えない銃で戦う冷酷非情、狷介剣呑きわまりもない戦場。手加減なし、容赦なし。あるかどうかもわからない「自由」を希求する戦場。勝利などない戦場。終戦も和睦もない戦場。終りなき言葉の応酬。疲れ果てるかみずから除隊するか新たな別の戦場をみつけるか。「あれかこれか」すらない。目の前にあるのは細く暗く荒れ果てた一本道だ。
 甘ちゃんは2ちゃんねるという戦場では生き残れない。自滅するか一斉射撃、集中砲火、十字砲火を浴びて死ぬ。2ちゃんねるにおける死はすべて一様に犬死だ。孤立無援。孤軍奮闘。後方支援は絶無。戦友もいない。2ちゃんねるという戦場で戦っているのは全員孤立無援、孤独な兵士だ。
 2ちゃんねらーはそれぞれが「たった一人の軍隊」の兵士だ。もちろん、精鋭、筋金入りの兵士から弾のこめ方、引金の引き方も知らぬような新米新参のなまくら兵士まで。悪意と怒りと憎悪と欲望と臆病姑息が渦巻く戦場。そのような苛酷困難な戦場で吾輩は言葉、文体にそれまでとはちがった磨きをかけた。ひと言、1行で敵を沈黙させ、「2ちゃんねるという戦場における死」、すなわち言葉の死をもたらす。レスポンスが遅ければすぐに「敗北認定」だ。絲山秋子もそんな戦場で言葉と文体を磨いたうちの一人である。吾輩は死屍累々たる荒涼とした戦場を2ちゃんねるの前身である「あやしいワールド」の時代から見てきた。いまはもう退役したがね。ごくごくたまに「ベテランズ・デー」にでも出かける気分で2ちゃんねるで新米兵士に精神注入棒を振り上げてやるくらいだ。

 5. インターネット・ラジオという「文体の実験場」
 2006年の秋口から約1年間、吾輩はねとらじ、インターネット・ラジオで番組を立ち上げてDJをやっていた。最初は数人に過ぎなかったリスナーはやめるときは常に数千人にまで膨れ上がっていた。最盛期(「最盛期」だって? あんなくだらないものが?)に吾輩はなんらの予告も事前説明もなくインターネット・ラジオをやめた。併設していたBBSも同時に閉鎖した。常連のリスナーどもはさぞ慌てふためき、落胆し、茫然自失したことだろうが、吾輩の知ったこっちゃない。彼らはFIN, THE END, 終は突如やってくるものなのだと学んだと諦めるしかない。

 インターネット・ラジオで独り言やらレス読みやら選曲やらすることなんぞ、よほどの不器用者でないかぎり、1週間もやってりゃ、いやでも慣れる。いっちょまえになってしまう。しゃべりに慣れ、気の利いたアドリブのふたつみっつをタイムリーにかませるようになるまでのしんどさよりも、むしろ慣れてからの問題のほうがより重要だ。自分ひとりで自分自身をリボルブし、喝をいれ、気合いを入れ、叱咤激励し、喉をからし、血へどを吐き、気の利いた選曲をしつづけなけりゃならないんだから。
 ゴールは視えないし、どこが・なにがゴールなのかさえわからない。あるいは、そもそもゴールなんかないのかもしれない。何時間しゃべくりたおし、何枚皿をまわしたところで、一銭にもならないことに血道を上げる。クールだ。ヒップでさえある。しかし、時間の浪費はなはだしいことこのうえもない。世の中にゴマンといるスットコドッコイ、ヘッポコ、スカタン、小心者、臆病者、卑怯者、下衆外道たちに、視えない自由を撃ちぬくための視えない銃をつきつける快感なら多少あるにしても、それとて、はやい話が自己満足とやらにすぎないといえばいえる。
 バカでなきゃできない。バカだからできる。しかし、馬鹿の数ある中でも勇気あるバカだ。くっさい息を吐きちらす利口馬鹿よりは格段に上等だし、痛快だ。臆病者・小心者・揚げ足取りと重箱の隅突っつきくらいしか能のない訳知り顔野郎どもにはできない「芸当」だろう。自由を撃ちぬくための銃を持つことすらしない者たちとは遠くはなれて、危ういタイトロープをただひとりゆく厳粛な綱渡りには、その対価として、なにがしかの達成感が用意されていると吾輩は思った。

 熱烈なラジオ投稿少年の日々をすごした吾輩にとって、近頃のFM、AMラジオはまったくつまらない。だから、聴かない。聴かない理由はふたつ。ひとつはかかる楽曲がつまらないから。各楽曲が有機的に連環しておらず、物語性、ストーリー性がないから。いったい何を気づかい、迎合しているのか知らぬが、キーキー声、カーカー声のJ-POPとやらを延々と垂れ流すラジオ・ステーションばかりである。ラジオにかぎらず、この国のほとんどのメディアは「キーキー&カーカー」にすり寄り、そのオンパレードである。もっと言えば、日本国全体が「キーキー&カーカー」にぺこぺこしている。いったいいつから、そしてなぜ、洟垂れ小僧、能天気小娘どもに媚びへつらうあさましい国になってしまったのだ?  
 理由ふたつめ。DJ、パーソナリティーのトーク、べしゃりがつまらないから。軽佻浮薄きわまりない「のり」だけで番組を乗り切ろうという魂胆がみえみえである。かつて、ミスターDJ、糸居五郎は言ったものだ。

「リクエストはいっさい受けつけない。私の番組は私の物語であり、かける音楽はその物語の一部である。」

 インターネット・ラジオ(ねとらじ)は面白かった。ピンからキリまで。サルトルから競馬からネトゲからデリダから人の道に外れて刑務所・更生施設を行ったり来たりしたお年寄りから「かかってこいやぁ!」の相沢から下衆外道からヤクザもんから萌え声から甘い16歳から癒し系から松田聖子にぞっこんのカズノコ天井人妻から衝撃のケルト赤Tシャツ(妖精の国から、こんにちは)から天然ブルースマンから電波系から人妻のグレーな鼻息から宇宙人を養成しちゃうのからオナニー実況まで、いま世界で起こっている事態、事象、現象の象徴がそこにはあった。しかも、24時間、365日。スポンサーなし。吾輩にとって、インターネット・ラジオは解放区だった。支配原理はただひとつ。自由放埒。

 インターネット・ラジオにおいて効果があるのは声質、間合い、名辞、テンポ、リズム、ユーモア、そして「知の反射神経」だ。形容詞、副詞をはじめとする修飾語はほとんど使いものにならない。使いものにならないどころか害悪でさえある。世界のどこのだれとも知れない者どもが息を殺してディスプレイに向きあい、吾輩の「言葉」「文体」に耳をすましている。インターネット・ラジオもまた2ちゃんねる同様に「言葉と文体の戦場」だった。少しでも気を抜けばチャンネルをかえられてしまう。STAY TUNEさせておくためにはひと言ひと言、1フレーズ1フレーズがキレていなければならない。知性のあるなし、高低、センスのあるなし、善い悪いはすべてチャラにされる。知性の「ち」の字もないような輩も耳をそばだてている。
 トークに対する反応はBBS, 掲示板に即座に現れる。大昔なら投稿葉書、ファクスというところだが、決定的にちがうのはほぼリアルタイムであるということだ。タイムラグはせいぜい数秒だ。サーバに一旦蓄積された「音声データ」がネットの回線を通じて配信される分のタイムラグ。
 吾輩がしゃべったことに対する反応はすぐにある。掲示板は1000本の投稿でひとつのスレッドが満杯になるのだが、5分も経たずに1000本のコメントでスレッドが埋まってしまうこともしばしばだった。現在性、「今」性の塊である1000本のコメント。ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー、三島由紀夫、小林秀雄からロリねた、コスプレ、コミケ、おまんこ、おねいちゃんの口説き方、酒の飲み方、きょうの晩御飯まで。エスプリとウィットの効いた質問から愚にもつかぬ大演説まで。まさに玉石混淆、ピンからキリまで。リスナーは引きこもり、指名手配犯、精神に闇を抱えた者、匿名をいいことに荒らしに走る臆病姑息小児病患者どもから東大教授まで。それらの有象無象、海千山千をグリップするのは困難を極めた。リアルタイム大容量雑多な投稿コメントの中から瞬時にネタを拾い、時事ネタを織り交ぜながら簡潔シャープで気の利いたトークをする。失敗すればリスナー数はみるみる減っていく。数千人のリスナーが一気に数十人にまで減ったこともある。インターネット・ラジオ、ねとらじはまさに吾輩の「言葉の実験場」だった。2ちゃんねる同様戦場でもあった。吾輩はその戦場における「たった一人の軍隊」だった。
 吾輩はこう考えた。「いまおれのラジオを聴いているのは知性ゼロ、センスゼロ、才能ゼロ、狭量跛行歪曲の下衆外道どもだ。こいつらをリボルブさせること。やつらの空っぽの弾倉に弾丸を装填すること。それがおれがインターネット・ラジオをやる意味だ」とね。吾輩の目論みはほぼ成功した。成功したと思ったとき、吾輩はインターネット・ラジオをやめた。あとには少しの満足感と悔恨と、そして故郷を失ったような痛みが残った。




     
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    [C79] いたち野郎の迷走行

    これ、続くの? コメ入れるぜ。
    あんたが「文体」を鍛え上げてきた過程はなんとなくわかった。ネットが戦場だったわけだな。だが、言葉とセンスを武器にネットで戦えば誰でも「文体」を手に入れられるわけではなかろう。インテリジェンスという素地が要る。教養という下地が要る。反射神経の良さも必須の条件だろう。
    オレが今考えているのは、90年代時点でのあんたをモデルにしたニナガワという男が重要人物として登場する自分の作品のことだ。オレはニナガワをインテリジェンス・モンスターとして描いた(描いている、まだ道半ばだ)。だが、あんたの思想と言語感覚の跳躍を目にし、跳躍の過程に関する語りを聞いた今、オレはニナガワのインテリジェンスを低く見積もりすぎているのではないかという不安を覚えている。
    作品は、オレが過去を振り捨てるための通過儀礼としてどうしても書かれなければならないものだった。そして、そこにはどうしてもニナガワに登場してもらわなければならなかった。オレはこれを90年代デカダンス期(とあえて言おう)にあったオレたち、相応に愚かであったオレたちのメモワールとして改変を加えずに進めるべきなのか。それとも、現在のあんたをメルクマールとして新たなニナガワを造形すべきなのか。非常に迷っている。
    だが、現在のあんたはあんた自身が書けばいいことで、何もオレが伝記作者の役割を務めることはないだろう。それに、「あのとき」のオレに強い影響を与えたのは、あくまでも「あのとき」のあんたである。難しい。長くなりそうなので、一旦、送る。

    [C81] インターリュード/インテリジェンス・モンスター

    インテリジェンス・モンスター。いい言葉だ。おなじことを高畑勲も言った。
    「たいがいの野獣と怪物にはお目にかかってきたが、きみはちょっとちがう。わたしが見てきた野獣や怪物たちはうまく調教すれば社会に放つことができたが、きみは調教師を 食 い 殺 す だろう。きみにとっては大きな不幸であり、社会にとっては大きな損失だ」

    高畑勲があと10歳若かったら吾輩の人生もまた別の様相を呈していたかもしれないと思うことがある。
    • 2013-05-05 22:35
    • 自由放埒軒
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    [C82] 承前

    いろいろ書こうと思ったが疲れたのでもうやめる。
    とにかく、あんたはモデルなんだから、あんたが「書くな」というならオレは作品を破棄する。なんか、考えるの疲れた。

    [C83] 友よ、静かに眠れ。

    友よ、静かに眠れ。ただし、悪夢満載で。
    • 2013-05-05 22:41
    • 自由放埒軒
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    [C84] 悪夢は獏にでも食ってもらうさ

    気を取り直して続けてみよう。
    たとえば恐ろしく馬力の高いスポーツカーが制限速度40キロの道しか走れないとしたらそれは不幸なことだろう。オレのニナガワは、そういう男だ。あまりに過剰なエネルギーを有するがゆえに、「生きていることそのもの」が苦痛になってしまっている男だ。90年代のあんたを、オレはそう見ていた。たぶん、こいつ、死にたいんだろうなと思っていた。
    そんなあんたに、オレは自分のポジを見ていた。あんたがポジで、オレがネガだ。なぜなら、あの頃、オレもまた死にたかったからだ。

    [C85] あの頃、「意識」を失いたかった。

     あの頃、というよりも生まれてからずっと、世界はスロモーション映像のように緩慢に動いて見えていた。人間も。太陽も月も。天体の運行も。雲の流れも。時のうつろいも。いまもだ。吾輩にとってはなにもかもがウスノロだ。遅い。「だらだらしてんじゃねえ!」と苛立っている。この感覚を理解できるのは死んだアイルトン・セナくらいのものだろうな。
     世界がウスノロなことに苛立つのはとても疲れる。だから、吾輩は「意識」を失いたかった。ひたすら眠りたかった。しかし、眠りは訪れない。そうなると、「意識」を失うために吾輩ができることは酒かドラッグだった。しかしーー。酒を浴びるほど飲んでも、ドーズしても、吾輩の意識は冴え冴えとしていた。
    「死」も意識を失うための選択肢のひとつだった。なぜ選択しなかったんだろうな。わからん。
    • 2013-05-05 23:08
    • 自由放埒軒
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    [C86] 承前

    ニナガワは、天使であるその妻ミレイをアダチに提供する。ソシアリズムという名の、歓待の掟である。そして、アダチに彼の女であるアスカを差出すように要求する。決して、強要的にではなく。すべてはニナガワの計算である。彼は、アダチを追い詰め、自らを殺害させるように仕向ける。だが、アダチはニナガワを殺害したことを錯乱の中で忘却し、白神山地の山中でミル・プラトーを経験した後、精神病院に収容される。そして、パソコンという嘆きの壁にひたすら物語を書き続ける。物語はインテリジェンス・モンスーを蘇生させる。仮面の狂女=ミレイの導きで、夜の動物園でアダチはニナガワと再開する。ニナガワはアダチの真の欲望を知っている。彼は一発の銃弾でアダチに死をプレゼントする。ポジとネガがメビウス状につながる。そして、いたち野郎はエクソダスを果たす。彼は、世界という物語を語りだすだろう。
    だいたい、そんな感じ。90年代の物語、さ。

    [C87] インターネットという名の「嘆きの壁」

     吾輩にとってはインターネットは「嘆きの壁」でもある。ただし、吾輩は嘆きを怒りで外装して壁に「言葉」を記す。いや、記すのではない。叩きつける。吾輩にとっては「嘆きの壁」はサンドバッグだ。何発でも何万発でも何百万発でもパンチを叩き込む。都合のいいことに、インターネットという「嘆きの壁」はタフだ。24時間365日、休みなくスパーリング・パートナーを努めてくれる。壊れない。音をあげない。泣かない。「まいった」を言わない。
     吾輩は強いものが好きだ。壊れないもの。音をあげないもの。泣かないもの。「まいった」を言わないもの。吾輩にとってインターネットはうってつけのサンドバッグ、スパーリング・パートナーだ。
    • 2013-05-05 23:24
    • 自由放埒軒
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    [C88] これもまた嘆きの壁か

    率直な感想を言えば、あんたは変わっていない。しかし、同時に、大きく変わったと思う。
    そうか、今でも世界はスローモーションなのか。たとえばそれこそ意識をなくすまで泥酔し、ギランバレーなどという厄介な病を抱え込んでしまっても、それでもなお飲み続け、また、浅●のギャングたちをつぎつぎに屈服させていき、オレはその蕩尽っぷりにあきれ果て、ついにはついていけなくなったわけだが、あんたの抱えている不幸だけはわかっていたつもりだ。あんたと決別した後、オレは激しい自責の念に襲われた。あの後、あんたは一時的にブログを閉鎖し、行方不明になった。不遜を承知でいえば、オレはあんたを見捨ててしまったと思い、さまざまな妄想にかられだし、ついには自分があんたを自殺に追い込んだと思い込むまでになった。その手の妄想は案外、キツいものなので、オレは再びドラッグに逃げた。そんで、精神病院行という顛末さ。まあ、昔の話だが。その体験が、今書いている物語の基になっているわけだ。
    だが、オレはあんたの変化の部分に注目している。このブログで再開を果てして以降のやり取りの中で、オレははっきりとそれを感じ取っている。だから、物語を続けるべきかどうか迷っている、そういうこと。

    [C89] なににしても「円環」は閉じられなければならない。

     その「物語」はガジン自身の物語でもあるわけだから、吾輩がどのような変節、変態をきたしたとしても、「ガジンの物語」として着地し、円環を閉じなければならない。円環を閉じられるのはこの世界に当事者であるガジンだけである。紡ぎ、書き継ぐうちにいかようにも「旅の姿」「様相」は変化していくだろう。それでいい。

     1990年代末以降、インターネットという名の「嘆きの壁」によって吾輩は深く大きな「切断」と再生を果たした。だが、いかなる変貌と変容をしていたとしても、そこにはなにかしらの連続性を見いだせるだろう。『スカンク・ボブのエクソダス』を書くことは、その「連続性」の謎を読み解く作業だと思えばいい。吾輩にできることについての協力は惜しまない。

     ただし、吾輩をグリップしようと思うなら、まず自分自身をグリップすることから始めるべきだろう。精緻明瞭明晰な自己認識のない者が吾輩をグリップしようとしても吾輩に食い殺されるだけだ。それは互いの不幸である。それと、ぽつぽつと誤字あるぜ。いかんいかん。誤字脱字、てにをはの用法の誤り、文法上の誤謬は万死にあたいする。
     吾輩のテクストを読んでいて気づくと思うが、吾輩のテクストにはほとんど誤字脱字、句読点の打ちまちがい、打ちそびれ、てにをはを中心とする助詞の用法の誤り、文法的な誤謬がない。なぜか。書きあげたのちに徹底的に完膚なきまでにコミットメントし、誤りを修正訂正しているからである。その「作業」のときに併せて夾雑物を削ぎ落とし、より美しく、より凄味が効いていて、より強く、より精緻かつ明晰な表現となるように改める。これを何度でも繰り返す。これら一連の「作業」は、テキスト・エディタ上では微妙なニュアンスがわからないのでブログにアップした段階で本格的に行う。ブログの第一稿より最新のもののほうがより完成度は高くなっている。その分、勢い、鮮度は落ちるがこれはいたしかたない。喪失と成熟は常に表裏一体のものである。
    徹底して「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」を排除すること。「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」は恥である。これを放置したままにする者は恥知らずであると看做していい。たいていの場合、恥知らずは「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」を犯してもどこ吹く風といった風情でいやがる。不届き千万だ。「誤字脱字」「てにをはの誤り」「文法上の誤謬」を徹底的に排除する過程でテクスト、言語表現は研ぎ澄まされてくる。これは「反復継続」によってさらに精度と速度が上がる。
     徹底した校正、編集ののちに、テクストどもは吾輩の手を離れて虚空へと羽ばたいていく。
    • 2013-05-05 23:57
    • 自由放埒軒
    • URL
    • 編集

    [C90] 要再考、だな

    それだよ、それ。あんたに食い殺されるってやつ。
    前にも書いたけど、オレはあんたに勝てるなどと思ったことは一度もない。このブログでやり取りを再開してからも、オレはあんたのエネルギーに飲み込まれそうになっている。すでにして。
    それでは、また同じことになってしまう。オレが逃げるか、あんたがオレを捨てるか、さ。オレももう、50を超えた。また精神病院行なんてまっぴらごめんだ。オレにはオレの道がある。細くて頼りないこと、この上ないけど。
    たぶん、オレはまだ、自分をグリップしきれていない。しばし、考えなければならない。物語を続けるかどうかは、それからだな。
    まあ、あんたには勝って欲しいと思ってるよ。ネットに叩きこんだ言葉で、腐れた出版業界をKOして欲しい。あんたの高笑いが響く日を、期待して待っている。

    [C91] さて、インターリュードがわりに、しばしの宇宙尻取りだ。

    ガジンの番だ。俺は横浜の番だ。

    http://diogenezdogz.blog.fc2.com/blog-entry-374
    • 2013-05-06 00:24
    • 自由放埒軒
    • URL
    • 編集

    [C92] だからあ

    どーゆー体力してんだよ。
    オレはもう疲れた。
    グリズリー・ベア聴いてから寝る。
    あ、10年代以降の音源では、アーケイド・ファイアの「suburbs」とグリズリー・ベアの「shields」は必聴ね。あと、PINK!の「try」は眠れぬ夜をさらに悩ましくしてくれる罪作りな一曲だ。
    おやすみ。

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