Make Loveで検索すれば、2,147,483,647件の有象無象がヒットする世界に向けて宣う。小僧っ子小娘は以下を読むべからず。 恋は必ず終わる。恋とはなんだ? 「快楽」「快感」の追求である。ヤルことに夢中になっていないのであるならば、それは恋ではない。ただの生活、どこにでも転がっている「人生」だ。ヤリたくてヤリたくしかたないのが恋だ。「ヤリたくてヤリたくしかたない」というメンタリティがない者、理解できない者も
ここから先を読むべからず。 吾輩は「快感」「快楽」が大好きだ。射精に達するときの感覚はベルナール・パコーのエイひれと春キャベツの蒸し煮シェリー酢バターソース、牛の尻尾の赤いワインの煮込みより魅力的である。もっとも、射精のときの「快感」「快楽」がいいのは好きな相手といたしているときのものである。好きでもない相手といくらテクノロジーを尽くしても、えられる「快感」「快楽」はつまらない。ここがおもしろいところである。理由は
。教えてやんねえよ、と言いたいところだが、言う。好きな相手といたしてえる「快感」「快楽」が素晴らしいのはメイク・ラヴは脳味噌、大脳辺縁系ならびに大脳新皮質でいたしているからである。「射精」を馬鹿にする訳知り顔の大馬鹿もの、ポンコツは愚にもつかぬA( )Cにすぎない。(「射精」がなけりゃ、人類の今はねえんだよ!)
さて、ヤルだけヤったわれわれの恋にも必ず終りがくる。「奥の奥まで」は遠い遠い夢物語となる。しかし、まだヤリたい。もっとヤリたい。ヤリまくりたい。ところがどっこい、ヤれなくなる。相手はほかの何者かとヤルことを選択したからだ。「奥の奥まで」と。
男女の「別れ」というのは相手方が当事者以外の者とヤル、あるいはヤリたいということの現れである。
どうだ? ヤリまくりたい相手がほかの男あるいは女とヤリまくっているというのは。つらかろう。胸を掻きむしられるようだろう。世界が自分を拒絶しているようだろう。吾輩が何度も経験してきたことである。しかしながら、それが世界の実相である。すなわち、「ヤリまくりたい相手がほかの男あるいは女とヤリまくっている」というのが。そのように世界はできあがっている。もちろん、そのような世界とは異なる世界に生きる者もいる。その者たちはたいていの場合、パン・ド・カンパーニュを焼いているかオマール海老でテリーヌを作っている。彼らの人生、生き方を邪魔してはならない。
再度、さて。いいおとなが恋に堕ち、そして、「ヤリまくりたい相手がほかの男あるいは女とヤリまくりたがっている、あるいはヤリまくっている」ときの心の痛み、どよめきをどうするか? ほかに「ヤリまくりたい相手」をみつける以外に手はない。さすれば、次前の「ヤリまくりたい相手」のことなどきれいさっぱり、嘘のように、瞬時に雲散霧消する。それが人間の人生の大方を占める「快楽」「快感」の実相である。「おとなの恋の終わらせ方」とはすなわち、ほかに「ヤリまくりたい相手」をみつけることである。
「ちょいワル」なボンクラポンコツどもへの若干の助言(おねいちゃんをはじめとするフェメはこの先を読むな!) いたしているときに腰に両の脚を巻きつけてくるような女には用心しろ。たいへんによろしいが、あとで苦しむ。痛む。その結末について、いまだ轍を踏んでいない者は酔いどれの王国のグラスの淵をまわりながら、風に訊け。それでもダメなときは、一回、死んでおけ。残念ながら、いたしてよいのは好き者、浮気者、淫乱者、そして、嘘つき者である。
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