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スミダの岸辺・「どこ吹くセロリの風」の話

 
 スミダの岸辺    継続するエラン・ヴィタールと不用意な明日、あるいは反ルイ・ポワリエの使徒として

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 昼下がりのテーブルの上には夜の果ての旅を待つ「架空の匿名時間」が物憂げにたたずんでいる。A.D.ベイジンゲル

「いつ/どこで/なにを/どのように」読むか/読まないかはすぐれて個人的な問題である。他者がとやかくのことを言う領域には属さないというのが吾輩の考えだ。『草枕』の文庫本を渡良瀬川の清流における午睡のための枕がわりにするのも自由だし、iPad/iBookを愛を囁きあいながら食す合鴨鍋乃至は相乗り鍋若しくはスンドゥブの鍋敷きにするのも自由だ。そこにはことの善し悪し、正邪の問題はいっさいない。あるのは自らの「内なる声」と読まれる/読まれないテクストがいかに響き合うかという問題だけだろう。
 ウンベルト・エーコ教授の『薔薇の名前』において修行僧たちが向かい合っていたのは「書物」「テクスト」だろうか? 吾輩はそのようには了解しない。彼らが向かい合っていたのは「教会」という名の権威、さらに言うならば「中世」という暗黒、闇であるというのが吾輩の考えだ。ことほど左様に、書物/テクストのたぐいは時代/世界の権力、権威と不可分のものであるととらえたときに初めてその真の意味を読み取ることが可能となる。
 このちっぽけでばかでかくて広い世界には読まれることを拒否するテクストすら存在することを踏まえながら吾輩はテクストどもと向きあっている。以下はほんの寓話だ。湿気た鳩サブレのごときファブルであるからして「読むことを拒否」していただきたい。

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 本所吾妻橋に小さなレストランがある。手持ち無沙汰の昼下がり、隅田川に面したそのレストランへ出かけてゆく。吾輩はこの際、ある本をかならず持参する。ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』を範として書かれた『スミダの岸辺』だ。作者の名は伏す。書名については手を加えてある。『スミダの岸辺』は菊判2000頁にもおよぶ大著である。3段組み7ポイント活字であるから、読みづらいことこのうえもない。しかも、読み手に作者と同等の博覧強記を求めてくるので、すこぶる疲れる。神田駿河台の古書店でみつけ、読みはじめたのが2000年の元旦であるから、吾輩はかれこれ13年も『スミダの岸辺』と格闘している計算になるが、焦る理由はこれっぽっちもない。なぜというに、吾輩はそもそも『スミダの岸辺』を読了しようなどとは考えていないからである。おそらくは、吾輩が鬼籍に登録されるまでに読み終えることはあるまい。それでいい。作者にしたところで、読了されることははなから考えていまい。そういったたぐいの書物もあるということである。読まれることを拒否する書物、テクストがあってもいい。

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 さて、午前中のうちに、その日片づけるべき仕事、案件が順調に進捗し、ある「目標」が達成されれば、あとは吾輩の自由気まま、放埒自在の時間である。うたたねを決め込むときもあれば、調べものをするときもあれば、わが来し方行く末に思いを馳せるときもある。今日やるべきことは今日やる。吾輩は明日やればいいことに今日手をつけたり、思い悩んだりしない。明日は明日の風が吹き、明日は明日の風邪をひくのである。実はこの吾輩の生活スタイルは合理的でもあって、世界は変数、常に転変、変わりゆくものであるからして、今日の事情、状況で明日やればいいことをやったところで、明日、事情、状況、事態に変化変更があれば、今日やったことがまったくの骨折り損、無駄足、くたびれ儲けになるからだ。これをして、「おっちょこちょい」というのである。
「明日は明日の風が吹く」という生き方のスタイルは数百年の昔にあたりまえのこととして実践されていた。本来、江戸開府以来、大江戸八百八町に暮らす庶民の生活は、実に「その場限り」「その日限り」の、きわめて場当たり的な基本姿勢がまずあった。そして、江戸・東京は「宵越しのゼニは持たない」というライフ・スタイルが当然のように肩で風を切る都市だったのだ。
「粋」「鯔背」といった美意識は軽やかで執着のない暮らしの基本原理があってはじめて成り立つ。いっぽう、野暮は野夫、あるいは吉原遊郭に遊んだこともないような田舎者、あるいは薮の中からでてきたような洗練されない者、さらには雅楽で使われる楽器、鉦の音のでない管、すなわち、音無しの構えでつまらない者を意味する。いずれの説にしたがおうと、野に暮らして田畑に執着し、家屋敷財産に執着し、ついでに過去にまで執着するようなあさましさ・さもしさをあらわしているように思える。
 有り体に言ってしまうならば、この国は言わずもがな、世界は野暮天だらけであるということだ。この国の野暮天どものさらにたちが悪いのはいけしゃあしゃあと善人ぶるところにこそある。ほかのポンコツボンクラヘッポコスカタンどもの節穴の眼は誤摩化せても、吾輩の慧眼を欺くことはできない。すべてはお見通しということだ。ちなみに、八王子の谷保天神社由来の説があるが、これは野暮天が捏造した眉唾ものであろう。
 吾輩はやはり軽やかなのがよい。明日吹く風のことをきょう心配したところで、明日の風向きを変えられるわけもない。同様に、明日ひく風邪について、きょう気を揉んだところでどうにもなりはしない。そうだ。明日は明日の風が吹く。明日は明日の風邪をひく。吾輩は吾輩の道をゆく。そのような「軽み」満載の生きかたをしたいものである。かくして、世界は明日は明日のどこ吹くセロリの風のごとくに天下太平楽である。本日の『スミダの岸辺』との格闘の記録。2行。

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