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アンドレ・リュウという「希望」

 
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 アンドレ・リュウがいい。口さがないクラシック通(何度でも言う。おまえらがツウなら吾輩はワンである。樽犬である)あたりからはさんざっぱらおぞましいほどの悪態をつかれ、陰湿で陰険で退屈な誹謗中傷、罵詈雑言を浴びせかけられてきたアンドレ・リュウだが、とにかく、そのエンターテインメントのレベルの高さ、親和力、演出等々が実に素晴らしい。
 現在、63歳。吾輩はアンドレ・リュウという底抜けのポジティブ・シンキングな魂がこれから世界に対してどのようにコミットメントしつづけるのかにも大いに興味がある。
 フルトヴェングラー/ベルリン・フィルのベートーヴェン/交響曲第五番「運命」やメンゲルベルク/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団のJ.S. バッハ『マチュウ・パッション(マタイ受難曲)』を眉間にしわを寄せて聴くのも音楽のひとつの聴き方であり楽しみ方ではあろうが、それらのクラシック通さまがたの対極にある「音楽の聴き方、楽しみ方」が厳然としてある。「思想」あるいは「哲学」として音楽と対峙するのと、鯱張らず肩肘張らず深刻にも神妙にもならず、単純に音楽を聴いて、あるいは演奏者を見つつ聴いて心地よくなるのとは等価である。優劣などいっさいない。
 吾輩は2007年のN.Y.ラジオ・シティで行われたアンドレ・リュウのコンサートを運よく経験できたが、そのコンサートは演奏者、聴衆観客を含めたラジオ・シティのミュージック・ホール全体がひとつの巨大な楽器、演奏者とも思えるような親和力と一体感を持つものであったと記憶する。まさに、「主客未分」の事態。神妙な面持ちですましている者などただの一人もおらず、ある者は大声で歌い、ある者は踊りだし、ある者は誰彼かまわずに抱き合っている。一種異様な昂揚感と恍惚と至福をともなってコンサートが終わったとき、吾輩は思った。アンドレ・リュウほかの演奏者と聴衆観客とコンサート会場とが渾然一体となって2時間の壮大な叙事詩を奏でたのだと。アンドレ・リュウの他のコンサートやライブ、リサイタルでもおそらくは同様の事態が起こっていることは容易に想像がつく。

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 アンドレ・リュウはコンサート、ライブ、リサイタルに直接出向くのが一番だが、それは現実には中々難しい。であれば、DVD等の映像ソフトで愉しむのがよろしかろう。CDだけではアンドレ・リュウの半分も味わえない。

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 アンドレ・リュウの表情、仕草を見ているだけで幸せな気分になれる。吾輩はなった。そして、なにより、アンドレ・リュウ本人が幸せそうで楽しそうだ。アンドレ・リュウだけではない。アンドレ・リュウと一緒に仕事をしている楽団員もその他のスタッフも一人残らず幸せで楽しそうである。観客聴衆もだ。時折みせる哀しげでやや疲れたような表情も味わいがある。初めはなにやらカルト集団に共通するものがあるのではないかとやや斜に構えていたが、どうやらそのたぐいのものではない。もちろん、大がかりなビジネスではあるわけだし、コンサートはプロ中のプロがきっちりと計算し、組み立て、作りあげたものではある。そして、それでいい。素人に毛の生えたようなポンコツを「ランキングの魔術」と「数字の詐術」と「ゴリ押しタイアップ」でいかにも人気があるかのように仕立てあげ、残念で勘ちがいも甚だしくて虫唾が走るほどチンケな48人衆をメディアに露出させまくることしか能のない輩どもなど足元にもおよばない。

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 アンドレ・リュウは時化て退屈で辛気臭いことばかりのこの世界に一瞬でも「希望」につながるなにごとかを味わわせてくれる。吾輩は味わった。西洋の「杉さま」とでも言いたくなるようなアンドレ・リュウの「流し目」ならぬ「チラ見」と「どや顔」の威力はたいしたものだ。オーディエンスの中には男女老若鍋釜を問わずに失神する者がいると聞く。YouTubeで「André Rieu」「Andre Rieu」で検索すれば一聴一見に値するものがいくつもみつかるはずだ。参考までに吾輩が一日に一回は視聴するものを下記にあげておく。開演しょっぱなのフランツ・レーラー『Dein Ist Mein Ganzes Herz(You Are My Heart's Delight)』がすこぶるいい。終演における総勢300人を超えるバグパイプ楽団の登場と、それにつづく『Amazing Grace』『Auld Lang Syne(蛍の光)』の演奏ならびに会場のシーンは強くストレートに魂に迫りきて、涙腺がゆるむ。


 
【「音色」に関する付記】
 ヴァイオリンの音色にかぎらず、楽器にかぎらず、この世界にあるすべての「音」については、極言すれば「好きな音」と「嫌いな音」しかないというのが吾輩の考えだ。気持ちいい音と気持ちわるい音、いい音とわるい音。フィドルの音をキーキーギーギーのノイズと聴く者もいればケルト音楽には欠かせない味わいのある音と聴く者もいる。それでいい。マイルスの音は暗いと言う者もいればブラウニーの輝かしい音色こそがトランペットの理想の音であると言う者もいる。そうかと思えば、マイルスの音数少なく暗い音こそ「沈黙」の奥にひそむ魂の音であると言う油井正一みたいな者もいるし、クリフォード・ブラウンの能天気な明るさにはうんざりだというひねくれ者もいる。まったくもってそれでいい。
 ストラディバリだろうとアマティだろうとガルネリだろうと、クレモナの新米新人ヴァイオリン制作職人が作った初号機だろうと、そして日本製の数万円のものだろうと、演奏者との相性が良ければいい音がするし、悪ければ散々な音しかしない。
 ずっと昔、海野義男がまだパクられる前に上野の奏楽堂で色々なヴァイオリンをピンからキリまで弾くテイスティングみたいな企画があって、海野義男はストラディバリを弾こうが国産の安物を弾こうが極上の音を出しちゃう。これには会場がどよめいた。ことほどさように、天才なり名人が奏でれば極上の音が出ちゃう。奏でる者がポンコツボンクラスカタンペッポコなら、たとえストラディバリだろうとアマティだろうとノイズにしかならない。『You Are My Heart's Delight』を馬子にも衣装にすらならないダッサダサに着飾った田嶋陽子の婆さんがラジオ・シティやらカーネギー・ホールやらで絶唱したら客席は瞬時にして閑古鳥の死骸で埋まってしまうということ。逆にホームレスに化けたマリオ・デル・モナコやキリ・テ・カナワやシュワルツコップやカルーゾーや鮫島有美子が街角、道端、裏通りで『鹿のフン』を歌えばあっという間に人垣ができちゃう。大仏ちゃんだってすっ飛んでくるかもしれない。
 そのあたりのことも含めて「音色」は語られるべきである。そして、であるからこそ「音色」を味わうというのは実は最後の音楽の楽しみ方でもあると吾輩は考えている。(音松)




     
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