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谷中びとの時間/ある若い友人との「再会」

 
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 五月。三社祭の頃だった。浅草寺観音堂裏の洋食屋、『グリル グランド』で昼飯を食べた。パン・コキーユがこの店の名物にして一番人気である。芸者遊びにうつつを抜かしていた時代、いまはなき「治乃家」の離れの座敷でよく出前した。当時、売り出し中だった胡徳やまいこや千晶や香名恵の芸者衆とともになつかしい。

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「パン・コキーユ」は食パン半斤の中身をくりぬき、できた空間に絶品のベシャメル・ソースにからまったマカロニや海老やその他もろもろの具をしこたま詰め込んである。そして、焼く。外はカリッカリのサックサクで、中はとろ~りである。ここにもまごうことなき「幸福」のカタチがある。パン・コキーユとともにプレーン・オムレツをケチャップ抜きでオーダーし、岩塩のみで喰う。なんと通な吾輩であることか。当然のごとくビールをグビる。さらにグビる。尿酸値上昇覚悟で毒喰らわばとグビる。痛みをともなった幸福はさらに加速する。幸福は痛みをともなっているくらいがちょうどよろしい。「ハッピー♪」と言うな。「ラッキー!」とも言うんじゃない。「ランチ♪」ではなく「昼めし」もしくは「昼餐」と言え。「カフェ」ではなく「喫茶室」のほうが品がある。「ドライケーキのウエストでございます。」だ。

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『グリル グランド』で「幸福」を痛いほど味わった吾輩は哲の馬の王、チネリ・スペシャル・コルサで谷中を目指す。半年ぶりだった。半年前に谷中を訪れたときは虹子と一緒だった。その日は単独行である。谷中    そこは時間が止まった街だ。広大な墓地とたくさんの寺で谷中の街はできあがっている。墓と仏に挟まれて申し訳なさそうにひっそりと人々の暮らしが営まれている。実際、谷中の住人の表情はどこか遠慮がちだ。タフでパワフルでエネルギッシュな浅草っ子と対局にあるのが谷中びとである。世捨てびとのようでもある。谷中の路地を行き当たりばったりに走り回っているうちに、いつしか、自分の中から「時間」の感覚が消え失せていることに気づく。それはとても奇妙な感覚だった。悪くない。吾輩はこの街の路地から路地へいつまでもいつまでも漂い流れてゆきたかった。吾輩はあのときたしかに「谷中びと」になっていたのだといまにして思う。

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 谷中の路地を完全制覇してから上野桜木町もついでにやっつけ、東京芸術大学に向かう。ある若い友人が奏楽堂で演奏するのをみるためだ。彼女は絶対音感の持ち主で、吾輩の知るかぎり、「音」に関しては圧倒的な天才であった。
 彼女の演目はリストの『ペトラルカのソネット 47番』、同じく『ダンテを読んで~ソナタ風幻想曲~』だった。彼女のピアノ演奏を聴くのは二年ぶりだったが、天才は二年の歳月を経て普通の秀才へと変貌していた。技巧そのものは格段に進歩していたが、それだけのことにすぎなかった。ひらめきや情念といった要素がなくなり、クレゾールで消毒されたように衛生的で味気ない演奏だったのだ。
 演奏を終え、彼女が客席に顔を向けたとき、吾輩は思わず目をそむけてしまった。彼女の表情からは生気が消え失せ、眼のまわりには痛々しいほどに大きくて濃い隈ができていた。憔悴しきった老婆のような姿が舞台の真ん中に立ちつくし、焦点の定まらぬ眼差しをこちらに向けている。二年の間に彼女にいったいなにがあったのか。吾輩には知る由もないが、きっと「よくないこと」が彼女に起こったのだろう。ひとはだれもなにかしら問題をかかえて生きつづけているということだ。一瞬、彼女と眼が合い、吾輩はゆっくりと二度うなずいてから席を立った。奏楽堂を出て、芸大生の行き交うキャンパスの真ん中に呆けたように立ちつくした。そして、眼を閉じ、耳を澄ました。東京は春の盛りの陽を浴びてしんとしていた。胸の奥に幸福でもハッピーでもラッキーでもないかすかな痛みがあった。「元気で。ずっと元気で」と若い友人に向けてつぶやいた。彼女に届いていればいい。痛みのともなわないリムスキー=コルサコフ『シェヘラザード』第3楽章アダージェット「若い王子と若い王女」のようにおだやかな幸福がいつも彼女とともにあればいい。

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