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背中#1 後姿のしぐれてゆくか

 
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 もうじき一年が終わる。百代の過客の後姿もしぐれゆく。青二才だった頃のある年の瀬が思い出される。中学二年の秋に母親が死に、一人の生活が始まり、六度目の正月を迎えようとしていた。私は二十歳で、それが人の一生で一番美しい年齢だなどとは誰にも言わせぬ日々を生きていた。貧しかった。いつも腹を空かしていた。そんな私にも容赦なく年の瀬はやってきた。

 大晦日の夜。生物学上の父親が訪ねてきた。ジョニ黒をひと瓶ぶら下げて。母親が死んだときに会って以来、六年ぶりだった。めっきり老けこんでいた。額のしわが驚くほど多く、深かった。頑強だった体の線はすっかり細くなっていた。生物学上の父親は私の前にジョニ黒の細長い瓶を置くなり、くぐもった声で言った。
「銭湯へいこう」
 私は黙ってうなずいた。洗面器と石鹸と大小のタオルの二組を支度した。銭湯への道すがら、私も生物学上の父親も無言だった。お互いに言いたいこと、聞きたいことは山ほどもあるのに。吐く息は白く、冬の夜空の星々が音もなくさんざめいていた。窓辺に映る市井の人々の暮らしの灯火が眩しかった。新しい年は数時間ほどにまで迫っていた。

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 銭湯はやけに騒々しかった。父と私。湯船に並んでつかってはいても、互いに口をきこうとしないばかりか、顔さえ合わせなかった。沈黙に耐えられなくなって、とうとう私は「背中流そうか?」と切り出した。生物学上の父親はやや間を置いたあと、ゆっくりとうなずいた。
 眼の前に父の背中がある。それまでに数えきれないほど見送り、憎しみやら怒りやらをぶつけ、眼をそむけ、焦がれた背中だ。細い。曲がっている。背骨がくっきりと浮き出ている。力一杯こすれば壊れてしまいそうな父の背中。涙と湯気とで視界はみるみる曇ってゆく。言葉にならない思いのたけを込め、無我夢中でこすった。気づくと、父の背中が小刻みに震えていた。父が泣いている。私はこのとき、初めて父と対話したのだと思う。新しい年がすぐそこまでやってきていた。

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 父は父である前に一人の男だった。母も母である前に一人の女だった。そして、二人とも人間だった。そんなあたりまえのことに、そのとき初めて気づいた。私に背中を向けていたと思っていた父は、実は私と同じ方向を見ていたのだということにも。
 部屋にもどり、湯飲み茶碗でジョニ黒を一杯ずつ飲んだ。言葉もなく飲みおえ、父は大晦日の夜ふけの街を一人帰っていった。父の背中は冬の街明かりの中にしぐれゆき、やがて消えた。父もいまやなく、その背中を流すことも、撫でることも、見送ることすらもかなわないが、それでも、そうであってさえ、しぐれゆく父の背中はいまもある。

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