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蘭奢待の女

 
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 どうしても解せない女が一人だけいる。その女は伽羅と名乗った。薄桃色の名塩雁皮紙でできた名刺には楷樹明朝体で「古木静香」とあった。名刺には伽羅の香が薫き込められていた。名刺の裏には所属する句会の名がみえた。たいそう名の知れた句会だ。そこで何度も賞を取ったことが見てとれた。「伽羅」は雅号の類いだろう。
 伽羅は蘭奢待のひとかけらを持っていた。入手の経緯については最後まで口を閉ざしつづけた。最後までというのは伽羅はすでに死んでこの世にはいないからだ。伽羅を写した画像が2枚だけある。すべてを吾輩にさらしきったにもかかわらず、伽羅は写真を撮るとなると顔が映ることをかたくなに拒んだ。
 吸いつくような肌をした女だった。化粧は頬紅を薄くさしているだけなのに匂い立つように美しく映えていた。快楽快感への探究心がきわめて旺盛で、まだ三十前だというのに四十女のように熟れた乱れ方をした。それがこちらの気をさらにかき立てるので責めかたにも熱が入る。伽羅はこちらの責めかたしだいで実に色々のさまをみせた。嗚咽のような声を長く細くあげつづけるかと思えば、腹をすかせた獣のように獰猛でおそろしげな声を部屋中に響かせる。そして、いくらでも果て、いくらでも求めてきた。伽羅の中は造りも具合もすこぶる複雑にできていて、一種名状しがたい動きと吸いつき方をした。一度伽羅を抱けば、大方の男は伽羅の虜になることは容易に想像がついた。まあ、はやい話が「魔性の女」とでもいうことだ。
 伽羅とはある新月の集まりで会った。退屈きわまりのない集まりで、あくびをひとつふたつしたとき伽羅のほうから声をかけてきた。
「わたくしももうみっつあくびをかいてしまいました」と伽羅は涼やかでいながら、どこか深い淫蕩を感じさせる面差しをあえかな月あかりに照らして言った。吾輩は生唾を飲み込んだ。「よろしければごいっしょに悪さをいたしませんか?」
「悪事は大好物だ」と吾輩は答えた。

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 伽羅と初めて会ってから交わるまで一時間と経っていない。そして十五日間、吾輩と伽羅はひたすら交わりつづけた。旅館の女将とは馴染みだったのでなにひとつ問題はなかった。交わりつづけ、腹がへると店屋物をとって喰った。喰いながらも吾輩と伽羅は交わった。ずっとつながっていたいと思った。伽羅もおなじことを言った。
 三日目にいっしょに風呂に入った。ならんで鏡をのぞいたら、そこには亡者の顔がふたつならんでいた。ふたりして笑った。「鬼まではまだまだだ。もっとやりまくらなきゃな」と吾輩は伽羅のかたちのいい乳房をもみしだきながら言った。
「ええ、そうね。鬼になりませんとね。もっともっといたしましょうね。なんなら、死ぬくらいまで」
「おまえ、イクときは死ぬ死ぬって何遍も言ってるぜ」
「あら。そうでした?」
 そう言うと伽羅は乳白色の喉元をみせてとても品のいい笑い声をあげた。寝物語に吾輩は伽羅にたずねた。
「おまえさんが入っている句会の爺さんどもとは懇ろになっているのかね?」
「ええ。ほとんど。猩猩爺さまばかりであちらのほうは満足させていただけないんですけどもね。わたくしに狂っていく姿をみているのがたいそうおもしろくって。中には田畑家屋敷を処分してわたくしに貢いでくださるおばかさんもいらっしゃいます」
「ふん。みずから首をくくったような爺さんもいるんだろう?」
「ええ。なんでもお見通しですのね」
 なんとも恐ろしげな女だと吾輩は思った。

 吾輩と伽羅はけっきょく、十五日間おなじ旅館のおなじ部屋でひたすら交わった。昼間でもろくに陽の射さない部屋が夜には月あかりがよく入ってきた。月あかりに照らされる伽羅はこの世のものとは思えぬほどに妖しく美しかった。
「そろそろ、仕舞いにいたしませんこと?」
「そうだな。今夜は十五夜だしな」
「おなじことを考えておりましたよ。次はまた新月の夜にでも」
「いや、次はない。おまえとはこれでおしまいにする」
「あら。よろしいの?」
「まだ死にたくはないんでね。おまえはいっしょに死ぬ相手をさがしていたんだろ?」
「ええ。よく御存知で。では、これでしまいにいたしましょう。これ、おしるしに差し上げます」
 伽羅は懐から渋茶色の黒谷和紙に丁寧にくるまれたものをよこした。濃密な香りがあたりに立ちこめた。
「なんだ?」
「蘭奢待でございます。わたくしと思っておそばにおいてやってくださいませな」
「蘭奢待? なんでおまえのごとき魔性の者、物の怪が持っているんだ?」
「それだけは申し上げられません。堪忍してくださいませよ」
「どうにも解せない女だな、おまえは。この吾輩としたことがあやうく取り殺されるところだった」
「うひょひょひょひょ。まあ、あなたさまも似たようなものじゃございませんか。蛇の道は蛇でございますよ」
「たしかにな。ところで、ひとつだけたずねるが、おまえの御先祖は足利か? それとも   
 吾輩が言うと伽羅はそれまでみせたことのない禍々しい顔つきになった。鬼の貌だ。伽羅が神田和泉町の数寄焼屋の若旦那と無理心中したのはそれから三日後のことだった。伽羅がくれた蘭奢待は長い年月のうちにどこかにまぎれてしまったが、家の中にあることだけはわかる。いつも当時のままの妖しく甘く濃密な香りが家の中に立ちこめているからだ。伽羅。それにしても解せない女だ。

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