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巴里の空の下、人生は流れる。#1


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 世界の天井に降る雨。雨の朝に死んだのはだれだ? 大勢いる。大勢いるうちの一人がヴァニタス・スカルラッティだ。死のにおうかなしみを静かにたたえた優雅と優美。チャコール・グレーのカシミアの膝掛けのように憂鬱で静寂に満たされたやさしさ。ヴァニタス・スカルラッティの夢を語り継ぐ者はいまやいない。
 雨の朝、巴里に死す。この冬はどんな夢をみるとしようかな。ろくでもない夢でも悪い夢でもこわい夢でも巴里でみる夢ならいい。千年に一人の大食わせ者事務次官に操られる木偶の坊操り人形である顔面土左衛門が国のトップにいるような国のどこでみる夢よりもいい夢だ。悪夢機械のアブラカダブラだらけのオイル・ヒーターのほうがまだましだ。

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 それにしても冷たい雨だった。容赦なく冷たかった。ポルコロッソは寝床から出てこようとすらしない。熱く濃くいれたカフェ・オ・レを2杯。ゆうべ訪ねてきたマダム・プレヌリュンヌが土産に持参してくれたデメルのビター・チョコレートをかじり、彼女の残り香をさぐった。マダム・プレヌリュンヌの残り香はひとかけらもない。ポンピドー・センターにのぼって雨の巴里の街をみた。雨脚は強くなるいっぽうだった。心とからだが芯から冷えた。

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 雨あがりの巴里は疲れた心に少しだけやさしい。そのことを知るのはこの世界で吾輩とジュリエット・グレコだけだ。ジュリエット・グレコ。帝王マイルス・デイヴィスが生涯でただ一人だけ本当に愛した女。
「あたしがどうあがいてもエディット・ピアフにはかなわないのよ。おなじ巴里の空の下で呼吸してるのにね」
 そう言って肩をすくめる彼女の肩越しに雨あがりのエッフェル塔がみえた。

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 ジュリエット・グレコを『ル・ドーム』の前まで送り届けたあと、マダム・ラ・ツール・エッフェルの足元に潜りこんだ。脛を蹴飛ばしたり、腿に2Bのファーバー・カステルを突き立てたり、足の甲を踏んづけたり、膝カックンしたり、股ぐら目がけて火炎放射器をぶっぱなしたりした。なにをしてもマダム・ラ・ツール・エッフェルは表情をかえない。眉ひとつ動かさない。毅然とし、凛とし、堂々としている。気品さえ漂わせている。さすが鉄の貴婦人と呼ばれるだけのことはある。その強靭な意志でピエール・ド・ボローニャ伯爵の横恋慕をはねつけたのは伊達ではなかったということだろう。鉄の貴婦人マダム・ラ・ツール・エッフェルはきょうもモンマルトルやモンパルナスやカルティエ・ラタンやアヴェニュー・デ・シャン=ゼリゼやオペラ座や人生や恋や涙を見守りつづける。マダム・ラ・ツール・エッフェルは本当にいい女だ。

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 寝ぐらのあるカンボン通りを北に行くとカプシーヌ通りにぶつかる。右折。しばらく歩いているうちにいいワインバーとカフェをみつけた。どちらもまだ真新しく初々しい。清潔感の極み。一発で気に入った。二軒とも朝からやっている。朝酒と軽い食事。吾輩のような気まぐれ自由気ままな者にはとてもありがたい。カフェのほうはテイクアウトもできる軽食喫茶というところだな。イタリア人がやっている。初め、「ムッシュ・ボンジョルノ」と声をかけたら無視された。次に「フォルツァ・フェラーリ!」と叫んだら白髪まじりの店主が仕事の手を止めてにっこり微笑んだ。

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 東京は酔いどれずにはいられない街だったが、巴里は酔いどれるというような無頼、破滅、荒廃は金輪際似合わない。「無頼や破滅や荒廃はこどものやることよ。シャルル・ボードレールもドリアン・グレイもエルンスト・テーオドール・ アマデウス・ホフマンもとっくの昔に死んじゃったのよ。この街には『悪魔の美酒』は一滴も残っていないのよ」とたしなめられる。カプシーヌ通りでみつけたワインバーは清潔で明るい。酔いどれ・酔っぱらい・酒ぐれはいっさい似合わない。2杯。多くとも3杯。そのときどきの気分で赤にするか白にするか。銘柄もお好み次第。ピンからキリまで。酒飲み修行の場がまたひとつ増えた。

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