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ランボーは水色の自転車に乗って#1

 
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 哲学的な自転車乗りとそうでない自転車乗り
 自転車乗りには哲学的な自転車乗りとそうでない自転車乗りがいる。例外はない。この話は哲学的な自転車乗りの生と死の物語となるはずである。
 
 行きつく場所、たどりつく果て。
 語りうることと、語りえぬこと。
 漕ぐ果てにあるもの、あるいはないもの。
 語る果てにあるもの、あるいはないもの。
 
 ランボーは九段坂をアウターギアのまま登りながら心の中でそっとつぶやく。T字路を左折し、内堀通りを目指す。まだ街は夜明け前の静寂のうちに沈んでいる。ランボーの朝のトレーニングは内堀通りを反時計まわりに30周回することである。距離にして約150km。トレーニングの実施は季節、天候、体調、その余の事情にはいっさい影響されない。20年間かわらずに続いている。
 27周回目。半蔵門をすぎ、ギアを2段上げて、国立演芸場、最高裁判所を横目に加速し、三宅坂をやりすごす。いま、この瞬間、両の手指、上腕、背筋、臀筋、大腿四頭筋、膝関節、下腿三頭筋、足首、そして足底筋にかかる負荷こそがまごうことなき「生」の証しだ。
 サイクル・コンピュータをみる。70km/hオーヴァー。ギア比53T×12T。ケイデンス124rpm。ハートレート・モニターは毎分178回の心拍数を示している。液晶ディスプレイのインジケータがひっきりなしに点滅し、心臓の過負荷を警告する。だが、ランボーはペダルを漕ぐ力を緩めようとはしない。それどころか、さらにケイデンスを上げようと試みる。カンパニョロ社製のカーボン・クランクが軋み、撓む。 
 意識が遠のきかける。それでもランボーはペダルを踏みつづける。内堀通りがゆるやかに左にカーヴし、桜田門前、警視庁本庁舎屋上のパラボラ・アンテナの一部が視界のすみに入ったとき、ランボーの意識は完全に消失した。ブレーキ・レバーを引こうにももはやブレーキ・キャリパーを有効に作動させるだけの余力は残っていない。レバーを握りしめ、丸裸の筋肉の力を「梃子の原理」によって増幅する。増幅された力は1mmにもみたないインナー・ケーブルを通じてブレーキ・キャリパーに入力される。これらが間断なくなされなければ、カタログ・スペック上、いかに優れた制動力を持つ機材であってもその能力を発揮することはできない。すなわち、自転車は1ミリたりとも止まらないというわけだ。同様に、ペダルを踏み込み、引き上げ、クランクをまわしてチェンにエネルギーを伝達しなければホイールは回転せず、前へは進めない。つまり、自転車とは身体の延長、身体の一部分を構成しているとも言えるのだ。
 カーブの頂点で親指の爪ほどの面積で地面をグリップしているミシュラン・プロレース2-20Cが悲鳴をあげはじめる。タイヤは限界性能を超えようとしていた。鈍い擦過音を発しながら車線1本分右にふくらむ。もしもこのときペダリングが止まっていればタイヤはグリップを失い、車体もろとも遠心力によって外側にはじき飛ばされたはずだが、ランボーは失神しながらもペダルを踏み込んでいた。
 後続の大型車両から、悪意にみちたクラクションが鳴る。急ブレーキの鋭い音とゴムの焦げる匂い。そして、罵声。
「これで、やっと死ねるんだ」
 そう思った刹那、ランボーの胸の奥深くをよぎったのは「言葉の祖国」にたどりつくための地図ではなかったか。残念ながらそれはランボーにしかわからない。だが、けっきょく、きょうもまたランボーは死ななかった。毎朝のことだ。正気を取りもどし、しらみはじめた冬の空に一瞥をくれ、東京の中心にぽっかりとドーナツ状にあいた「聖なる空虚」の周囲をランボーは疾走する。ゴールなど見えようはずもない。内堀通りは環状道路だが、その「円環」は閉じられていないからだ。走りつづける道はけっして引返すことのできない細く長い一本道である。
 より速く、より遠く。自転車乗りはこのふたつを実現するためにこそ身体を鍛え、食事を制限し、夜明けとともに走りだす。彼らが目指す「速さ」は具体的な数値ではない。彼らは「現在」「今」よりも速く走ることを目的とする。自転車乗りたちは「此処」ではない「彼処」、「此岸」ではない「彼岸」、「近く」ではない「遠く」を日々夢想し、憧れ、やがて夜明けとともに漕ぎだす。「今」の連続の果てにある「スピードの王国」を夢み、遠く遥かなる「彼岸」に向けて世界中の名もなき自転車乗りたちはきょうもまた走る。走りつづける。ランボーは水平線に現れた日輪を凝視し、つぶやく。

「世界中の名もなき自転車乗りに、きょうもいい風が吹きますように」

(カンピオニッシモ・ファウスト・コッピの憂鬱のごとくにつづく。)

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